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2005年3月16日 (水)

「価値観の弁証法」仮説

せしりあ+まりあさん、いろいろコメントありがとうございます。自分がどのようにしてクラシック以外の音楽を好きになっていったか、ということに関しては以前からずっと考えていたことがあったので、ちょっとまとめて書きたいと思います。

元祖のヘーゲルが何を言ってるのか知らないのですが、僕は価値観というものは、<否定の否定>の方向に進化していくと考えています。

たとえば、ドミソの単純な和音を「美しい」とし、いわゆる不協和音を「美しくない」とする音楽観がもともとあったとします。これは「不協和音の否定」の音楽ですよね(注1)。こういう音楽に長くなじむと<飽き>が生じ、あるときこれまで聴き苦しい音と思っていた不協和音に美しさを感じるようになる。そうなると「ドミソの単純な和音を美しいとし、いわゆる不協和音を美しくないとする音楽観」そのものを否定して、「不協和音にも美しい不協和音とそうでないものがあり、和音にも美しい和音と退屈な和音がある」というように価値観が進化する。
こういうように、人間の価値観は内的な発展を遂げていった、というのが僕の「価値観の弁証法的発展」仮説です。差異化について論じている人々は多くいるのだけれど、それをシステムの内的な運動として語っているのって、多分発想があまりにモダンくさくて、ポストモダンの人たちは無視してきた考え方だと思います。でもそろそろリバイバルする頃かもしれませんね。

さて、こういう「価値観の進化」は「個体発生は系統発生を繰り返す」の法則に従い、個人の価値観の発達についても同じようなことが言えるのではないかと考えています。少なくとも自分自身の価値観の変遷を振り返ったときに、同じようなことが言えるように思うからです。

そういう目から見ると「クラシック以外の音楽の良さを認められない人」というのは、より未発達な価値観なのではないかと思わざるを得ないんですよね。ただしクラシックから現代音楽に価値観が進化していった過程につきあっていると、ロックの音楽がそうした歴史をとても原始的なところからやり直しているように見えるというのはわかります。僕もそう思っていましたから。アフリカがまだ暗黒大陸と呼ばれていた頃、その奥地に入っていった西洋人も、現地の音楽を聴いてそう思ったみたいですね。でもだからこそ逆に「否定の否定」としての象徴的な意味づけをしやすくて、伝統を打破しようとしていた先進的な音楽家に受け入れられていったりしたんだと思います。まあ今更の解説と言ったらその通りですけど、こういう論理を自らの価値観にもあてはめてみようとする人って、多分意外に少ないので。

もっともそういう「否定の否定」によってあらわれてきた新しい価値観をより上位におくようなメタ価値観自体が、「否定の否定」を通じてきっと乗り越えられるものだとは思います(注2)。そういう自己矛盾の彼方にどんな知が待っているのか、それは僕にはわかりませんが。

注1 音楽の歴史を見ていると、美しさと醜さの曖昧な茫洋としたグレーの音楽の中から、こうした区別のはっきりしたきちんとした音楽が生まれてきて、その後そうした音楽観の否定として新しい音楽が生まれ、というように進んできたように思います。前者のような秩序化の動きも価値観の進化として重要なことはいうまでもないでしょう。

注2 こういう概念の階層化を前提にして、学習というもののレベルを考えたのがベイトソンです。

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