« 「価値観の弁証法」仮説 | トップページ | フランソワのプロコフィエフとスクリャービン »

2005年3月16日 (水)

村上かつら短編集1,2

今年の小原賞に次点として「サユリ1号」を挙げたが、今回は彼女の初期短編集について。
彼女のこのあたりの短編って、たとえば「天使の噛み傷」のように、「たのまれもしないのにフェラチオをする女」みたいな、男にとってちょっと都合の良い女性がヒロインだったりするものが多い。でも彼女の作品の良さは、そういう読者サービスを越えたところにあるように思う(注1)。
たとえばこの「天使の噛み傷」だけれども、<やれる女とやらない美学>の自己肯定の物語と言えなくもない。でもそこには重い葛藤が用意されていて、そうした葛藤のさきにある<やれる女とやらない美学>は新たな意味を持ちはじめるように構成されている。そうした意味は、たとえば自分がやらずに大事にしていた女を、さきにやってしまう男が出てきたとき、その彼とどういうような関係を持つか、というところにも現れているように感じる。
 
彼女の絵は、石坂啓や岡崎京子におそらく影響を受けているが、性の扱い方にもこの二人の延長上にあるような気がする。この二人のマンガが好きな方にはぜひお奨めしたい。
 
 
注1 どうしてそういう部分を「抜きにしなければいけないのか」だけど、文学って、「現実はこうだけれど、こんなんだったらいいのにな」という安易な妄想であってはいけないと思うから。
そういう安易な妄想って、ひとつの欲求不満を満たすとさらに自己満足のレベルがつぎつぎに上がっていって、現実との距離が開いていく中で単に虚しいだけのものになっていきがちだから。カントが、嘘は社会関係の中で自己矛盾に行きつくしかないから、人の行動原理として否定すべき、としたのと同様、そういう妄想はシステムとして袋小路に落ち込んでいくしかないから、それははじめから否定しておいたほうがよいだろうということ。
もっともいろいろな漫画家の作品の変遷を見ていると、そういう<袋小路>をいったんきちんと経験してから、それを突き抜けるような作品を描くようになる、ということはあるかもしれない。そういう意味では、マルクスが資本主義を共産主義へのステップとして評価したように、袋小路のマスターベーション的妄想もちゃんと意味があるのかなあ (今日はさっき「弁証法」についてちょろっと書いたので、なんか思考がそういう方向に行きがちかも)。
もっとも「こうだったらいいなあ」という妄想が、今の現実を否定して別の現実を作り上げようという力にもなったりするとは思う。すごく古典的なプラグマティックな発想だけれど、僕はそういう作品が好きだ。

« 「価値観の弁証法」仮説 | トップページ | フランソワのプロコフィエフとスクリャービン »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/150203/3326616

この記事へのトラックバック一覧です: 村上かつら短編集1,2:

« 「価値観の弁証法」仮説 | トップページ | フランソワのプロコフィエフとスクリャービン »

2015年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ