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2005年3月12日 (土)

電車男に見るオタクのコミュニケーション

 今更だが「電車男」を読んだ。2ちゃんねるの世界に対して、恐怖心と嫌悪感がさきにたってしまう自分にとって、これはある意味「安心して読めるホラー」というか「不活性化されたウィルス」というか、そんな位置づけだったし、多くの人にとってもそうだったかもしれない。もっともこのワクチンを打ったところで、2ちゃんねるの世界に飛び込んでいく勇気ができたわけでもない。(でも少しだけ抵抗力はできたかもしれない。)
 
 例によって僕の<実存>にからめてひっかかりのあったところだけ取り出すと、電車男の恋愛関係が進展していくに従って、この場のコミュニケーションのかたちが、みんなが「相談に乗ってやっている」というものから電車男がみんなに「話を聞かせてやっている」というものに変わっていったあたりが興味深い一方でちょっとイタい。自分の恋愛につきあってきた住人たちの期待に、デートの一部始終を報告することで答えようとする電車男の「いいひと」さは伝わってくるものの、それでもこういうことってプライベイトにしておくものじゃないか、と感じてしまう。この本のラストに続く、スレのその後もネットで読んだが、恋人同士となった後で誰もが行うそういう行為の描写になるにいたって、これまでも見せられてきた「得意になったオタク」の姿に「ああやっぱり」と思った。
 僕自身も世の中のオタクたちと共通するような対人恐怖的なところは自覚してるし、人に注目されて何か話をするのはずっと苦手だ。そういう人がトクイになってる姿って、ヒクツの裏返しみたいに見えるけど、それがこんなにもいやらしく見えるのは、やっぱり自己嫌悪みたいなものだと思う。
 
 「電車男」の感想にこんなこと書いてる僕も僕だが、昨日見たNHKの「人間ドキュメント 私はこうして就職した」で、妻と「こういう人っているよねー」みたいな話になった飛び火がこっちについただけかもしれない。
大学を卒業後就職浪人している子達を集めてやってる埼玉県の就職セミナーの話だったんだが、話の本筋とは関係なく(注1、2)、「これって、いじめられっ子にありがちな顔だよねー」というところで盛り上がっていた。
 
 これまでたまたま僕が出会った人々の印象に基づく、単なる仮説に過ぎないのだが、こうした顔(というより表情)を持つものは、いわゆる「場の読めない困ったチャン」であり、いわゆるオタクであることが多かった。もっともオタクがみなそうだというのではなく、こういう表情をするものにオタクが多いというだけだが(注3)。
 こういった人々について、僕らはどういうわけだが、ちょっと顔や表情を見ただけで識別できてしまうようだ。と言うのもこうした顔を見ると「おどおどしている」「視線が泳いでいる」という印象を与えるからだ(注4)。そうした人を見ると「いじめられっこ」という印象を受ける。
これが僕の一番気になっている点なのだが、彼らが「いじめられっこ」という印象を与えるのは、
�@ 「場の読めない困ったチャン」だった結果、いじめられて、それがああした表情に結びついたのか、それとも
�A 彼らが実際にいじめられてきた結果、おびえた表情をするようになり、またいじめられてきた結果、後天的に「場の読めない困ったチャン」になるのか、それとも
�B まずああした表情をするのにむかつく人たちがいて、彼らからいじめられることによって、後天的に「場の読めない困ったチャン」になるのか、
 この三つの項目の因果関係の順番である。
 
 �@は比較的常識的な考え方だとして、�A�Bの「いじめられることによって、後天的に<場の読めない困ったチャンになる>」という仮説は、なんでそんなふうに考えるのかわかりづらいかもしれない。簡単に言うと、いじめられ続けた結果、そうした現実を否定して、想像の世界に生きるようになり、ひとつひとつの状況や他者の発言に対して、他の人にはできないような解釈を与えるようになるのではないか、というものである。現実を否定して妄想の世界に生きるようになる、というのはフロイトまで遡ることのできる精神分析の底流をなす考え方で、ヒステリーなどは(妄想ではないけど)そんなふうに解釈されてきた。ただ統合失調症などの妄想は、そういう心因性のものではないのでは、という考えが主流になっていったところに、ベイトソンがダブルバインドという新解釈を出したのである(と言ってもそれも今は昔なんだが)(注5)。
 ダブルバインドとは、メッセージとメタメッセージが矛盾する内容を伝えるもの。メタメッセージとはメッセージに関するメッセージ。それはいわゆるメッセージの集合としての「文脈」だったり、メッセージを伝える際のボディラングエッジだったりする。ベイトソンの例だと、母親が幼児に「こっちにおいで」と言葉で言う一方で、その声の調子は「あなたを愛していない」という雰囲気をかもし出しているような状況。「あなたを愛していない」という声音は、その声音で語られるメッセージを「敵対的な文脈で解釈せよ」というメタメッセージになっている。しかしそのようには「こっちにおいで」というのは解釈できない。こどもにとって「こっちにおいで」というのは親密的な意味をもっており、「敵対的な文脈で解釈する」ことは不可能だからだ。こうしたダブルバインド的コミュニケーションにさらされ続けたとき、人は自己防衛として「メタメッセージ」のほうを無視するようになり、それが分裂病における「文脈オンチ」を生成するのではないかと、ベイトソンは考えた。
 
 いじめについても、その初期段階においては、<いじめている>側からすれば「これは遊びである」という枠組み(フレーム)で様々な行為がなされ、そうした意味づけ・解釈を、<いじめられる>側にも共有させようとすることがよくある。ここで<いじめている><いじめられている>を括弧に入れているのは、はじめはその参加者誰もがそれを「遊び」だと疑っていない、ということがよくあるからだ。しかし、その遊びが一方的にある者を精神的に肉体的に苦しめるようなものであった場合、苦しめられているものからすれば、「遊び」とは認めがたい、という状況が起こってくる。でもそうした異議を訴えれば、「遊び」の場は崩壊し、みなの楽しみが失われるばかりでなく、<自分はいじめられっこだ>というレッテルを自ら受け入れることにもなってしまうので、「遊び」のなかで「遊び」を楽しいとは思えなくなっているものは、そうしたフレームをどうすればよいか苦しめられる。これが進んでいくと一種のダブルバインドになると考えられる。どのような意味でダブルバインドになるかは、読者の方に考えてもらいたい。
 このようにいじめがダブルバインド的性格を持つ、というのは僕自身の仮説ではなくて、社会学ではよくあるもの。これが上記の仮説�A�Bの背景にある。
 
 話は大幅にずれたが、電車男の場合、それほど強い文脈オンチ傾向が見られたわけではないが、かすかな対人恐怖的傾向と、その裏返しの、いったん優位にたったらとことんその関係を拡大しようとする、という兆候が仄見えた気がした。
 でも彼の場合、ちょっと(ほんのちょっと)幼いだけで、成長するにつれて、しっかりした人間になっていきそうな感じはする。インターネットのコミュニケーションがそうした成長を促すものであって欲しいなとは思う。うーん、どうなんだろう。2ちゃんねる嫌いの僕に、それをきちんと判断する情報はあまりないのも事実。
 
 いずれにせよ、僕がこんなことを書いているのも、自分にもそうした傾向があったと自覚しているからなんだろう。
 
 
 
注1 僕自身ずっとフリーターで研究員やってきて、去年34にしてやっと常勤の就職が決まったということもあって、若者の就職難の話はまったく他人事ではない。妻にしたって、「結婚で退職して再就職し、また夫の転勤で移動して」という世間様に申し開きできる立派な理由があるにせよ、安月給の非常勤に甘んじているのはとりあえず確かで、同じような身分の友達も多いから、うちにとっては<実存>のかかったテーマになる。
 
注2 これもこの話題とは関係ないが、こういうセミナーの講師って多くが心理学畑の出身らしくて、心理学的な意味での「過去の自分」と「将来の自分」をつなげるって話になってる。この番組で言えば、子供の頃の夢とか書かせたりして、自分の潜在的な興味を探させ、それを仕事につなげていくというような内容。
そういうやり方のひとつの結論として、この番組では次のような場面が生まれていた。このセミナーの受講生が受けたある就職面接なのだが、面接官が「ご実家は梨農家を経営されているとのことですが、あなたは不動産の業界にどうして関心を持つようになったんですか」とたずねると、「私は不動産業というよりも、営業という軸で就職活動を行っています。私が営業のなかで理想としているのは云々」というような回答をしていた。
ああいう心理学的なセミナーを受けて、その考えを正しく応用すると、こういう回答になるのだろう。しかしそれって、この日本社会において正しいのだろうか。この社会変わった変わったとは言われるが、いまだに就職っていわゆる「就社」であって、OJTにしたって、専門職の人材を育てるよりも、何でもできるジェネラリストを育てて行くという側面が強いのではないか。それはいろいろな課を転々とさせられるホワイトカラーだけでなくて、ブルーカラーにおける出世も、「あれができるようになった、これができるようになった」という技能給がつくことがその指標になっている、というのも読んだことがある。僕が読んだそうした比較社会論って、80年代から90年代前半のものだったけれど、こういう日本企業のあり方がその後20年の間に変わったという話はついぞ聞かない。
一方、企業以外のところでこの社会は確かに「やりたいこと」とか「自己発見」とかを重視するようになっている。彼らの就職難のひとつの原因は、企業社会と学校社会のそうした価値観のギャップにあるのだろうと考えられる。その結果、「自分の本当にやりたいこと」が見つからずにモラトリアムになってしまっているわけだ。そういう子供たちにとって、就職カウンセリングという場において必要なのは、先輩たちがどのようにして仕事の面白さを発見してきたか、会社に自分の居場所を見つけてきたか、という知恵なのではないか。就ける仕事にとにかく就いた上でその仕事の魅力を見出し、自分がそこにおいて役立つ人間になれるんだ、という自信を与えることこそが大事だと思う。
企業社会と学校社会の価値観のギャップを埋めてやること、これこそが就職カウンセリングの正しい役割ではないだろうか。
 
注3 
 論理的に言うなら、オタクという集合のなかに、「場を読めない困ったチャン」が含まれる。「場を読めない困ったチャン」はみなオタクだが、オタクはみな「場を読めない困ったチャン」とは限らない。もちろんこれは経験的観測による仮説。ところで、こうした文脈でオタクを語った文章にこれまで出会ったことがない。知っている人がいたら教えて欲しい。
 
注4
もっともこれは程度の問題のようにも思う。こうした「オドオドした感じ」はいわゆる対人恐怖のひとつのあらわれだろうと思うが、誰かと敵対的なコミュニケーションをしなければいけないとき、たとえばヤクザにからまれるとかしたら、ほとんどのシロウトさんはそんな「オドオドした感じ」になってしまうだろう。たくさんの人の前で話をしなきゃいけない時とかにもそうした緊張を感じやすい。僕の大嫌いなブッシュJr.もしばしばそうした表情を見せるが、それだけをもって、彼を「場の読めない困ったチャン」だと考えるのはおそらく間違っているのはそういう理由による。でも世の中にはこうした表情が常になってしまっている/ささいなことで出やすい人たちがいる。そういう人たちは、僕の知るほとんとの場合「場の読めない困ったチャン」だった。
注5 統合失調症は精神分裂病と訳されてきたschizophreniaの新しい訳語。差別の原因を言葉に押しつける考え方に僕は反対だが、「分裂」というのが多重人格障害と間違えられやすい、というのはもっともな理由とも言える。ちなみに心因性とは、トラウマみたいに経験によって生じるソフト面の異常で、精神療法で直すことができると考えられる病気で、一方の器質性とは、ハード面の異常で、薬や手術などで治すことのできる病気、というふうな二分法で考えられていた。しかし、そういうソフトとハードの二分法がだんだん通用しなくなってきているようだ。たとえばリンクを参照。

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