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2005年4月 8日 (金)

自戒の言葉 (simさんへのレスも兼ねて)

 simさんどうも。長山さんの本読まれたんですね。僕もこんな文章書いてるかいがちょっとはあるということなんでしょう。
 長山さんが最後の章で書かれているのと同様、僕にとってもフリーターになるということは、少しも他人事ではなかったので、これは真面目に考えてみたい問題です。フリーターになるかどうかという特定の問題を別にしても、自分の担当する学生さんにもぜひ自分たちの世代が持っている性格として、ぜひ一緒に考えて欲しいと思っています。
 僕がsimさんにアドバイスできるような存在だとは思いませんが、僕自身が、自分によく言い聞かせてきた言葉を二つだけ書いてみたいと思います。
 
「選択に迷い続けるのも、状況を無視してただただ進み続けるのも、どちらも危険で不毛だ。迷う時期は限り、いったん決断したら一定時間は自分の決断を信じてひたすら進むこと。しかし時に応じて、自分の判断を再評価し、新たな道を探ることも大事」
 長山さんの本の中で「会社は冷たい」と愚痴を言う、リストラされたり、定年を迎えたりした社員が出てきます。
 たぶん彼らは、「これをしろ」という周りの命令にばかり忠実で、自分のおかれた状況を見直し、ありうる可能な選択肢を見直す、というようなことをほとんどしてこなかったんだろうと思います。会社にただただ忠誠を尽くしてきたような者も、もちろんその一部はちゃんとそれなりに報いられるような地位についているはずですが、みながみなそうとは限りません。
 忠誠を尽くすと決めて、ひたすら頑張るのはある意味楽ですし、自分の力を十分に発揮できるでしょう。「こんなことして一体どうなるんだろう」と疑い続けても得られるものはありません。何か大きな仕事をするのに、「それが自分にとって損か得か」というような感情を捨て、ある意味滅私奉公のつもりでがんばることは大事なんだと思います。僕自身はそういうことをやってこなかったけれど、たとえば「プロジェクトX」みたいな番組を見ていると、そういう人たちが成し遂げてきたものの大きさは感じることはできると思います。でもそうした滅私奉公だって、所詮は後々の見返りを期待してのものである、という自戒を忘れていると、最初に述べたような定年を迎えて「会社は冷たい」と愚痴を言うような存在になってしまいます。
 会社に尽くすというのではなく、夢に殉ずることだって同じことでしょう。進むことと止まって考えること。このバランスが大事で、自分はどちらかに偏りがちという自覚があれば、友人に相談するのもよいと思います。
 
 
「大きな仕事をするには、小さな無駄をいとわないこと」
 上に書いたこととも関係しますが、僕は、自分が妙に計算高い小人物だ、という自覚があります。策士、策におぼれるというやつです。子供の頃よく見たヒーローものとかで、敵の小隊長みたいなレベルのボスキャラが、戦場に先回りし穴を掘って、ヒーローがそこに落ちるように画策してると、一枚上手のヒーローにひっかかって自分でその穴に落ちるとか(注1)。こういうお約束はおそらく今にも引き継がれていると思いますが、ああしたお話を見ると自分はその中途半端に賢い小物だなあといつも思ってました。でも、わかっちゃいるけどやめられないんですね。
 
 「始業式とか終業式とかを無駄だと思って行かなかった」というふうに以前書きましたが、こうした自分の性格と社会との違和感は、僕が学者になる上での原動力になっているので、今さら否定もできないし、むしろ年を取るにつれて、安易に妥協してまるくなってしまう自分を、これじゃやばいとは思っています。このグローバル化した専門分化社会における自分のレーゾンデートルをかけて、キャラをもっと戦略的にとがらせていく必要があるのかなとは思っています。こんなふうに計算しちゃうところがすでに駄目だ、という話もありますが(汗)。
 ただそうした性格はともかく、年齢に応じた大きな仕事をするには、「こんなことをしても、もしかしたら無駄になるかもしれない」というリスクの判断を思い切って甘くする必要があるんじゃないかな、ということが最近強く感じることです。
 
 僕が結構気に入っている映画に、中国の「活きる」という作品があります(注2)。激動の文革期を生き抜いた家族の話なんですが、そのなかにこんなエピソードがありました。屋台の夜店で、主人公であるお父さんが、こどもにいいところを見せようとして、射的みたいな、ボール投げで的を全て落とすとぬいぐるみがもらえる、というのに挑戦するんです。決まったボールの数で全部落とすと成功、というようなよくある出しものですね。
 ただそのお店はさらに次のような特殊なルールを採用していました。一回失敗した後で、二回目に挑戦するときには、参加料金は倍になるけれど、もしそれに成功したらぬいぐるみのほかに、それまでに払った額をすべて返してくれる、というものです。最初は参加料金が100円だとします。それに失敗すると、その100円を取り戻すのに今度は200円が参加料になります。それに失敗すると、今度はその300円を取り戻すのに参加料金が400円になります。次はその300円+400円=700円を取り戻すのに参加料金が800円になる。そういう具合です(注3)。
 この映画の中で主人公がその賭けに勝つことができるかどうか、というのは見てもらってのお楽しみですが、プロとして大きな仕事をする、というのは、こういう賭けで「自分は最後に勝つことができる!」という信念を持って挑み続けることができるかどうかにかかっているのではないかと感じています。もちろん信念だけでは駄目で、実力がともなってこそ意味があるのですが。
 またこうしたところで賭けるものとしては、時間やお金もそうだけれども、自分の人生に何をあきらめるのか、ということが大事なんだな、ということを今さらに感じています。今さらそんなことを言っている時点で駄目な気もしないでもないんですがどうなんでしょうね。あと10年したら結果が出ているでしょう。
 
 
 
注1 そういうドタバタを中心にすえたストーリーとして思い出すのは、ヤッターマンですね。ドロンボー一味は、いつも相手の裏をかこうとして失敗する、という役回りだったと思います。僕の記憶では、そうした「小賢しい」ものがやっつけられる、というストーリーとしては、ゴレンジャーなんかでも定番になっていた気がします。仮面ライダーなどに比べると、もう少しそういうギャグが効いていた印象があるので。テレビの時代劇とかはほとんどみたことがないので知りませんが、きっとこういうストーリーはもっとずっと前から定番だったんでしょうね。
 
注2 うちでチャン・イーモウ、コン・リー フェアが開催されていた時にみた作品の一つですが、チャン・イーモウではこれが一番好きですね。ちなみにもう一人の主演、グォ・ヨウは、「ハッピー・フューネラル」という作品でも味のある演技を見せていてお勧めです。
 
注3 ギャンブルに必ず勝つ方法、と言われるものはこれと同じようにできています。ルーレットなどで赤と黒があったら、勝つまで前回の倍をかけていくんです。1かけて負けたら次は2をかける。それも負けた次は4かける。これを勝つまでやるわけです。勝つ確率と、勝ったときに増える倍率がつりあっているなら(つまり1/2の確率で勝って、賭け金が倍になる)、永遠に資金が続く限り、決して負けません。もっとも一度勝ったらそこでやめる、というルールなので、勝っても1以上はもうからないし、永遠に資金が続くという前提も本当には満たせるはずもありえませんが。そこまで運が悪くないことを信じるしかありませんね。ただし実際のルーレットには0とか00があって勝つ確率が1/2を下回っているから、永遠の資金があっても勝ち負けの損得を平均したら負ける見込みが高くなります。
 

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コメント

レスの文に割り込みするような形になってしまいますが、この文にバシっと来たので…。
自分は昔から賢くありたいありたいと思い続けていたような気がします。ですが、何故かそう思えば思うほど、実際の行為は小賢しいか或いは愚かであるかどちらかになるという、計算高くすらない小人物、になっていくのでありました。
そこで最近どうも気付いたのですが、自分はどうやら本来的にあまり賢くないらしい、と。
過去に人生の中であまりにもたくさんの証拠がそれを示唆し続けていたのでさっさと気付けばよかったんですが、あんまり認めたくないことだったもので…。
ただ、気付いてしまった以上、向いてないことをしても時間の無駄であると思った自分は、最近賢さに変わる新たな自己肯定の概念をひねくりだしました(笑)。
それは「人間の球根」というものです。

というのは、人間というものは表面に現れる部分などはほんの僅かであって、実は目に見えない部分が無茶苦茶にでかいのではないか。それは地中に巣食う巨大でグロテスクな球根の様に、人間の心の底に潜んでいて、実はそいつが人間というものの本体なのであると。
そしてコミュニケーションなどというものは本当はその球根同士が会話をしているのではないだろうかと。
実は人間存在のおもしろさというものはその球根の部分のでかさだけが担当していて、むしろ表面にある部分を太らせようとするのにやっきになると、球根がどんどん細っていくのではないかと思うようになりまして。
そう考えて以来、賢くあろうとするのはやめました。
その代わりに球根を太らせることにしようと思っています。
お陰でこんな馬鹿げた考えを臆面もなく言い出せるようになりました(笑)。

俺は、かずまさんはすごく球根のでかい人間なのだから、そいつの言う事を聞いてれば良いのでは無いかって思います。

いや、誰にせよ、球根の言う事に従う以外の道はないのかもしれません…。

賢さに代わる概念、といえば、社会学者としては「よい習慣」がまず思い浮かびますね。育ちの良さでも、悪さでもどっちでもいいんだけれど、とにかくその生まれ育った社会でうまくいきていくために、身体化された知恵というようなもの。
ただこれって、社会がどんどんその性格を変えていたり、自分が生まれ育った社会とは別の社会で生きることになってしまったときには、役に立たないはずなんです。より汎用のきく「賢さ」が求められることになる。

そういう頭でっかちな考え方でなくて、よりポエジーを感じる考え方としては、司馬遼太郎がよく言う「器の大きさ」というのは面白いなと思いますね。司馬も、社会を動かす力として、「賢さ」以外に、一体何があるんだろう、ということをずっと考えていた人というように感じています。そしてそれが「器の大きさ」なんでしょうね。
sparrowhawkさんが言う、球根って、ちょっとこの「器の大きさ」に似ているのでしょうか。もっとも司馬は歴史小説家だから、「器の大きさ」って、小説になっちゃうくらいのレベルで歴史を動かす上でのリーダーシップ能力の一つとして考えているはずですが。

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