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2005年5月16日 (月)

「スクリーンの中の中国・台湾・香港」 戸張東夫 (対談集)

 僕はアジアの映画の中では台湾の映画が一番好きだったのだが、だんだんと大陸中国や韓国の映画などもいいなあと思うことが多くなってきている。
 それらを僕がいいなあと思うようになってきた原因として、一つにはそれらの国で観衆が成熟してきて、これまでの大げさで誇張された表現よりも、抑えた演技を受け入れるようになってきたというのが大きいんだろうなあと漠然と考えていた。しかしどうもそれだけではないようだ。
 
 この本を読んで、アジア映画の変化について、改めていろいろなことを考えさせられた。戸張は張藝謀自身の言葉として、次のような引用をしている。
 
「台湾映画は、侯孝賢にしろ楊徳昌にしろ、普通の人の生活をきめ細かく描いている。その一方で民族や歴史などにはあまり関心を持っていないように感じた。一方、中国の映画は伝統文化や民族とかはあるけれども、人間への関心に欠けている。しかし侯孝賢の「悲情城市」や、楊徳昌の「クーリンチエ少年殺人事件」では歴史や民族について考えるという姿勢が感じられた。そこで私も「秋菊の物語」では、彼らに学んで、中国映画に欠けていたものを描こうとした」(pp.73-74)
 
 こういう話を聞くと張藝謀のここから後の映画というのがとてもよくわかる気がするし、侯孝賢や楊徳昌にしても、台湾における表現の自由の拡大という政治的背景とは別に、張藝謀らの映画からの刺激などもあったのかもしれないなと感じる。
 こうした互いの影響関係というのは、当然あってしかるべきなのだが、今までそうしたことをあまり考えたことがなかった。というのも、中国映画、台湾映画、香港映画が、おそらくマーケットの違いのために、性格があれほどにも違うので、互いに独立に成立しているという印象を強く持っていたからだ。もちろん今でも観客層には大きなずれはあるのだろうが、しかし製作者同士では、同じ言語圏の作品でもあり、互いの影響を受けないほうがおかしいのだろう。
 
 またこの本ではじめて僕は、張藝謀ら、いわゆる第五世代が文革を直接体験している世代だということを知った。もしそうだとするなら、彼らが中国の政治に対して強烈に言いたいことがあるだろう、ということは想像するに難くない。しかも政治的理由で表現が束縛されているとなれば、それが例えば「赤いコーリャン」のような、ある種の様式美のようなものになるのも当然なんだろう。そしてそこからの彼の作品の変遷も、上記のような話と合わせるとさらによくわかる気がする(注1)。
 
 以前にもこのblogで彼の「活きる」という映画についてちょこっと触れたが、あの映画はまさに「歴史的状況下における人物」を見事に描き出した作品であるように感じた。
 僕にとってそうした映画を撮る監督の代表はずっと長い間コスタ=ガブラスだったのだが、今や張藝謀はその横に並べられる気がしている。 
 
注1 そういえば、彼はさらにその後、香港のスタッフ(程小東 チン・シゥトン <チャイニーズゴーストストーリーシリーズの監督、少林サッカーのアクション監督>)と組んでアクション映画にまで手を出すんですよねー。すでにアメリカに進出していた台湾の李安が、やはり香港の袁和平(「蛇拳」「酔拳」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」)と組んでグリーン・デスティニーを撮ったのに触発されたんじゃないかって気がしますね。「あいつにやれるなら俺にもできるはずだ」みたいな? 

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