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2005年9月27日 (火)

『ドラゴン桜』に見る、ゲーム、競技としての受験の成熟

 TVドラマの『ドラゴン桜』は大変興味深かった。
 とうとう大学受験も、他の趣味やスポーツなどと同様、<がんばっている人を素直に応援できる>そういう分野になってきたんだなあという感慨もひとしお。
 ドラマのなかでは、世の中に蔓延する東大に対するコンプレックスが批判されているが、こうしたドラマが普通に成立すること自体、そのようなコンプレックスがすでに相当程度解消されていることを示していると言ってもよいだろう。
 というのも、こうしたドラマが僕ら視聴者にインパクトを与えるということの背景には、「よい大学に行くということだけが人生ではない」という考え方が単なるきれいごととしてではなく、リアルなものとして、多くの人に当たり前のものとして受け入れられていなければならないからだ。そうした考えが当たり前になっているからこそ、「バカとブスは東大に行け」という言葉が、そうした当たり前の考え方に対するひとつの反論として、意味のあるメッセージになるのだろう。
 これまでは「よい大学に行くということだけが人生ではない」というような考えは仮にあったとしても、いわゆる負け犬の遠吠えとして、すっぱいブドウの論理で片付けられてしまっていた。受験競争に乗らないこと自体がそのまま敗者を意味するという現実が一方にあって、「よい大学に行くということだけが人生ではない」ということはそうした敗者のルサンチマンのはけ口となっていた。だからむしろこうしたTVドラマでは、そのようなルサンチマンに基づくフィクションが受けていたのだ。学歴がなくても成功するとか。その意味で、メッセージを成立させる「図と地の関係」(注1)が逆転しつつあるのかもしれない。

 もっともこのドラマでも、有名私立高校に通う生徒について、やはりそうしたルサンチマンに基づくような、「成績が良い=人間が冷たい」という偏見を反映させた登場人物がでてきたりしていて、まだまだこうしたテレビドラマで受験をポジティヴに取り上げるということが冒険なのだということはうかがわれる(注2)。

 ところで原作のマンガのほうだが、こちらはドラマ以上に受験テクニックの紹介を中心にしていて、こちらもなかなか興味深かった。
 それにしてもこういう内容のマンガを、モーニングのような主に大学生をターゲットにした雑誌に連載しようというのも、よく考えれば不思議なものだが、それだけ受験というものがドラマとして面白いということだろう。またそうした受験テクニックという細部にこだわることが、すでに受験を終わった人にとっても、実用とは無関係に興味を引くということを意味している。
 原作のマンガでもドラマでも、「東大に行けば180度人生が変わる」というかたちでこのような勉強の実用性を強く訴えているが、読者や視聴者にとって、こうしたフィクションの核心にあるのは、このような非実用性であり、日常との距離感である。そのような距離感が確保された上で細部のリアリティーにこだわることでドラマは面白くなるのだが、それは受験の当事者にとっての勉強の面白さそのものでもある。フィクションの中で強調される「実用性」は実際のところ、偏差値30から東大を目指すという極端な非現実性を薄め、現実との適度な距離感を作り上げるための装置であり、そうした現実との適度の距離感の中に「架空の秩序」を作り出し、そこで競争することこそが受験の面白さにつながるのだと考えられる(注3)。
 
 この「架空の秩序」という言葉は恩田陸のものである。今たまたま彼女のエッセイ集を読んでいるのだが、その中に『ネバーランド』という自作について語った文章があった。この「架空の秩序」の作用について上手に表現しているので、ちょっと引用してみたい。

 ティーンエイジャーというのはえてしてつまらないものだ。映画や漫画やTVドラマの中で知っていた十七歳は、現実にはほとんど存在しない。実際のところはたいていみっともなくて、情けなくて、退屈なのだ。
 しかも、彼らには架空の秩序が与えられている。本当のところはこんなもんじゃないんだけど、君たちとりあえず社会に出るまではこの秩序を信じていてね、これでうまくやっていてね、という感じだ。その架空の秩序に苛立ち、軽蔑するのはある意味で正しいけれど、その一方で架空の秩序に甘え、守られているのもティーンエイジャーというずるい生き物なのだ。 (「ネバーランドの内と外で」 『小説以外』恩田陸 p.93)

 青春小説の基本テーマはどれも多かれ少なかれこんなところだし、この『ドラゴン桜』も例外ではない。受験がいかに「架空の秩序」であるかということは、このドラマの最後にはっきり示される。しかしその「架空性」が当の受験生にもすでに十分暴露されていることによって、受験はかつてと違った重苦しい何かではなく、爽やかな青春のドラマたりうるものとなったのだし、マスコミもその「架空性」の暴露そのものに血道をあげるプレッシャーから開放されたのだと言えよう。

注1 僕らが何かを見ている場合「背景と対象を区別する」ということが行われていると考えられる。その背景を地、対象を図と言う。
例 http://www.icoffice.co.jp/zukan/sh_design.htm 

メッセージにおいても、「当たり前の考え方」を背景として、それとの区別というかたちで意見を述べるということがある。こうした情報論的な考えについてはこのblogでも何回か書いているが、学生さんにはレポート、論文、プレゼンなどの基本テクニックとして、ぜひ理解し応用できるようになって欲しい。

注2 マンガではそのような人物は登場しないし、「東大生はそれほど変わった人間ではない」というメッセージは一貫している。

注3 現実との適度な距離感を保つことがゲームの面白さの本質であることを述べたのは、Eゴフマン(「ゲームの面白さ」『出会い』誠心書房1985 所収)である。その考えはホイジンガまで遡る(『ホモ・ルーデンス』中公文庫)から続いている。この話は今期の社会学特講のひとつのテーマになるので興味のある人はぜひ受講して欲しい。

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