« Eトッド 『世界像革命』 | トップページ | 「オズの魔法使い」 »

2006年9月 4日 (月)

本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』

 本田はこの本で、現代日本がハイパーメリトクラシー、すなわち人々のどんな種類の能力も何でもかんでも測定して評価する、そういう社会に変貌しつつあると主張している。興味深い部分もあるが、理論とデータの扱いにおいて少々問題を感じるところも多い。

 本田は、ハイパーメリトクラシー社会への変化を、「近代型能力」と「ポスト近代型能力」という二分法で描き出そうとする。前者はこれまでのメリトクラシー社会で主に評価されたいわゆる「学力」であり、後者は文科省が「生きる力」と呼んだような種類の能力である。

 本田が述べるように、日本において、企業と文科省が1980年代後半から2000年頃まで、「ポスト近代型能力」を重視する方向できたことは疑う余地もない。しかしそれが先進国に共通する変化か、と言うと大きな疑問である。
 本田は、ベックやギデンズを引用し、見田の「情報化/消費化社会」の議論を引用しながら、どうして日本がハイパーメリトクラシー社会になったかということを主張している。ベックやギデンズ、見田の理論は無論日本だけではなく、欧米など先進国全般にあてはまる理論として立てられているはずだから、その理論からハイパーメリトクラシー社会になることを言うなら、すなわち日本だけでなく先進国に共通した変化だと彼女は暗に主張していることになる。しかしそれは、理論がどうあろうと現実から否定されそうだ。
 というのも、たとえば英米は伝統的に自由主義的で標準化されない多様な能力を評価してきた。評価方法においても手続きの公正さよりも、個性を重視するやり方をとっている。これは、英米が日本よりも100年ほど進んでハイパーメリトクラシー社会になっていることを意味することになるが、他の様々な指標を見るにそうした解釈は矛盾につきあたる。
 しかもその英米は、教育改革を通じて、この時期の日本とは逆に、基礎学力の重視を打ち出してきている。さらに、日本においても、つい最近はゆとり教育に対する批判の大合唱となり、もう一度基礎学力重視に戻りつつあるようにも見える。
 もし英米と日本で教育改革の方向が逆転していたのだとすれば、それは先進国全般に共通する変化に対応して、というよりはもっと別の要因が働いていたと考えるべきではないだろうか。

2 さらに、「近代型能力」と「ポスト近代型能力」の違いは、日本と英米という違い以外にも
A 「工場労働者と 管理職、それぞれに求められる能力」、B 「中等教育と 高等・企業教育、それぞれで重視される能力」、C 「正規教育と課外活動、それぞれで育成される能力」という対にもある程度対応している。
 この全ての対において、社会的に後者が重視されるようになった、ということができるのだろうか。 それとも、例えば今でも工場労働者では近代型能力が必要とされるのに、産業における需給関係とは無関係に、別の理由で高学歴化が進み、そちらの論理だけで「ポスト近代型能力」が重視されるようになったとは言えないだろうか。
 あるいは例えば、これも様々な要因によって、課外活動が低調になったり、子どもが遊ばなく(遊べなく)なったことで、本田のいう「ポスト近代型能力」の育成が疎外され、仕方なく正規教育の中でその育成を行わざるを得なくなった、という仮説は成り立たないか。

3 苅谷らにおける「努力=勉強」とする狭い見方を批判し、勉強時間が減ったからと言って、彼らが努力しなくなったわけではないのではないか、というような疑問は正当なものだろう。そして、ハイパーメリトクラシー化に対応して、こどもたちが、学力以外の分野において、その努力を傾けるようになった、すなわち「閉じた努力から開かれた努力へ」と変化した(p.77)とする仮説も十分検討に値する。
 しかし、努力に関するこどもたちの主観的な評価のデータをもって、努力の量が減っていない(増えている)とするのは大いに問題があるのではないか。こどもたちによる「努力」という言葉の定義自体が変化している、というのならその量を比較すること自体に意味があるとは思えない。
 また、彼女自身が示したように「相対的に希少化した諸要因――親からの期待や生活習慣、勉強時間、テスト得点などーーが、『努力する』子どもの用件としてかつてよりも重要になっている」というデータから読み取れるのは、たとえば以前の基準からすれば相当少ない勉強時間でも相対的に多いと感じられるようになった、ということである。親からの期待などについても同様で、かつてだったらとても「厳しい」とはいえないような親の態度も、今では全体がこどもに対して甘くなっていることから、相対的に「厳しい」と感じられるようになった、それだけのことであるように見える。
 にも関わらず、本田はこのデータを逆に、「努力していると感じる基準が甘くなった」とは言えないことを示すものとして扱う。このような箇所を見ると、彼女の全体的な分析も相当いい加減なのではないか疑いたくなる。
 

 そのように疑い出すと、彼女がこの本における分析の主要な技法として採用した重回帰分析についてもどこまできちんと行われているか、危ぶまれる。そこで設定されている説明変数の組み合わせにはどれだけの根拠があるのか、それが十分に示されていないからだ。重回帰は、説明変数の選び方で結果が大きく変わってくることが知られている。

4 三章、四章では、「対人能力」や「生きるためのスキル」が重視されるようになった、ということを通して、ハイパーメリトクラシー社会を実証しようとしているが、彼女が用いているような質問から、ある人がそれらの能力を持っているかどうかなど知ることができるとはとても考えられない。
 こういった能力を、本人に対する質問紙だけで測れるという考え方自体、問題がある。対人能力、コミュニケーション能力といったものは、本人が「自分の考えを伝えられる」と思っているかどうか、などでわかるわけもない。多くの人が「コミュニケーション能力が欠如している」と考えるような人は、まさにそのような自己評価ができないところに問題があるのだ。本田はまた、「友達の間違いを指摘すべき」と考えることも、対人能力の高さとしているが、「友達が間違っている」と決めつける前に、「自分自身が間違っているかもしれない」、と反省することもコミュニケーションにおいて必須の能力だろう。対人能力というのはそうした多くの個別の性格のバランスの上に成り立っているはずなのだ。
 そもそも「ポスト近代型能力」の「ポスト近代能力」であるところの所以は、そうした能力を測る技術が「ポスト近代」になってようやく十分に開発されたことにあるのではないだろうか。それをこんな乱暴な質問票で測れると思う方がどうかしている。
 もしそれをどうしても測りたいのであれば、たとえば参与観察という手法をとるか、あるいは少なくとも他のクラスメイトや教師からの評価を総合していく、といった方法をとるべきだろう。「生きるためのスキル」は、実際に様々なことをやってもらい、それを評価するしかない。
 こういういい加減な調査の結果が今後一人歩きするようであれば(そしてその危険性は大いにあるが)、こうした調査の価値はゼロどころかむしろマイナスである、とさえ思われる。

 予算がないことを言い訳に、いい加減な調査をいくつもやってきた自分自身への反省もこめて、他山の石としたい。

« Eトッド 『世界像革命』 | トップページ | 「オズの魔法使い」 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/150203/3326696

この記事へのトラックバック一覧です: 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』:

» 第6回大佛次郎論壇賞に岩下明裕の北方領土問題 [及川的大人のブログ]
日本の政治・経済・社会・文化・国際関係などの 優れた論考を顕彰する第6回大佛次郎論壇賞は、 岩下明裕さんの「北方領土問題」に決まりました。   また、大佛次郎論壇賞奨励賞は、 本田由紀さんの『多元化する「能力」と日本社会』です。   第6回大佛次郎論....... [続きを読む]

« Eトッド 『世界像革命』 | トップページ | 「オズの魔法使い」 »

2015年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ