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2006年9月 4日 (月)

「オズの魔法使い」

 現代日本の大人が何も考えずに楽しめる、というお話ではないように思う。はじめから最後まで違和感があり、それがある意味興味深い。
 この映画は本国アメリカでははっきり「古典」として位置づけられている。たとえばIMDbの人気投票では全体で88位、1930年代の作品で100位以内に入っている作品は他に四つだけ(チャップリンの「モダンタイムズ」と「街の灯」、ラングの「M」とキャプラの「スミス氏、ワシントンへ行く」)だ。単に平均得点が高いだけでなく、投票総数も4万以上で、1万程度のほかの四つを圧倒している。IMDbの感想を読んでも、アメリカ人の多くが子供の頃にこの作品を普通に見て育っていることが推測される(例えばBothanの発言)。想像するに、それは僕らが「日本むかしばなし」などを見て育ったのと同じような感覚なのかもしれない。
 カラーで撮られていることも大きいだろう。それは日本における白黒中心の時代にあえてカラーで撮られた「ウルトラマン」が、今でも古びていないのと同じだ。カラフルでキッチュな色使いや、書割的背景も、色とりどりに装飾された幼稚園のようなもので、意図的な演出としても十分現代の子供向けの映画においてありうるものだ。
 つまり、アメリカ人にとっては、この作品は「大人がその感性を試されるような」古典的な作品ではなく、何の違和感もなく普通に自然に楽しめるそういう作品であると言って良い。

 そのように考えると、僕らにとっての違和感はアメリカ人が当然のものとしているような、その文化への違和感とも言える。
 その違和感は物語のスタートからはじまる。ドロシーは大人に囲まれていて、誰も彼女の話をきちんと聞いてくれない。日本において、こんなにも大人の世界は子供にとって圧倒的な壁ではないはずだ。単にまわりに子供がいないという不自然さだけではない。こどもらしい可愛らしいものがそこには一切ない。
 物語の構造上、そうした「かわいらしい」こどもの夢の世界はみなマンチキンやらオズらの別世界に移されているというのはわかるが、そのこどもの世界においても僕らの目が出会うものもお世辞にも「かわいらしい」とは言えない奇妙な人々と奇妙な情景に過ぎない。しかもそこは悪い魔女が殺されたことを祝う祭が行われる単純な善悪の二元論の世界である。でも、アメリカ人にはあれは十分「かわいらしい」のだろう。
ジュディ・ガーランドが歌うあの「虹の彼方に」も、映像なしに見れば誰もが大人の女性の歌だと感じる、完成された美を表現している。それは、自分の子犬を守ろうと一大決心して家出した女の子が歌う歌としてはあまりに不自然だ、と僕らには感じられる。
この違和感は、社会における大人的な価値観の位置づけの違いから来ているのだ、と説明できそうに思う。単にアメリカと日本の文化の違いではなく、あの時代との時間的な距離も関係しているかもしれない。アリエスの描いたような大人中心の世界の余韻がまだあの映画には残存しているのだと。
 とはいえ、オズの魔法使いはアメリカにおいて、現代まで生き延びているが、戦前の日本のこども向け映画や漫画などで戦後にも生き延びているものは全くないだろう。

 戦後のこども文化がそれ以前の文化と切り離されて再出発したそのことも、日本における世代関係や成人観を形成するひとつのきっかけになっているのかもしれない、と感じさせられた。

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