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2007年9月24日 (月)

ようこそ先輩 「便利を少し捨ててみよう」

今回は非電化製品、というようなシリーズの発明を行っている発明家藤村靖之の授業。
 僕は基本的にこの「ようこそ先輩」という番組は、教育というものの奥深さを無視し、教育そのものの専門家・実践家の力を軽視して、それぞれの分野の専門家なら誰でもできること、というイメージを広めようとしている問題のある番組だとずっと思っている。
 今回も、藤村の基本的な思想には共感しつつも、その教育観には大きな疑問を持たざるを得なかった。
 
「便利を捨ててみる」というのが藤村の設定したテーマだ。にも関わらず、この番組自体が「たった二日間で子どもを変える」という安易な結果を求めている。
多くの子どもは賢く礼儀正しいから、相手が求めているものをその場では返そうとする。自動洗濯機を使わずに洗濯板を使ったり、電気アイロンをつかわずに熱したフライパンを使ったり、電気炊飯器を使わずに鍋で米を炊いたり。そしてその行動に何とか意味を探そうとする。その意味として多かったのは、その行動が大変だからこそ、心が伝わり誰かが喜んでくれるということ。
でもその子達はそもそも普段から洗濯をしたりアイロンをかけたりごはんを炊いたりしていたのだろうか。それすらしていない子がほとんどだろう。もし彼らが洗濯機を使ってでも、お手伝いをしてくれれば、そしてそれが家族への感謝の気持ちのあらわれとしてなら、家族は本当に喜ぶはずだ。そうしたことならまだ続けることもできるかもしれない。でも彼らのうちこれから例えば一年たったところで、一回でももう一度同じことをやってみようというものがあらわれるだろうか。まずあらわれまい。何故か。彼らは便利さを優先する価値観を本当の意味で少しも疑っていないからだ。
ただしこの子達の中で唯一、自分自身が普段からやっていることを変えてみようとした子がいた。携帯メールを使わずに手紙を書くこと。そして手紙を書くことは、この時代においても(その使用頻度は下がりつつも)メールと並ぶ通信手段の一つとして生き続けている。手紙を書くことはそれ自体が気持ちを伝えるために行われる手段であり、相手からのポジティヴな反応が期待しやすいものである。
この子達のなかで彼の行った手紙を書く、ということだけはその後も意味を持ち続けるかもしれない。実際、僕らの中には真剣な気持ちを伝えなければいけない場面で、携帯メールよりも手紙を選ぶという人がまだ残っているのだ。
ここから、不便だからそのまま消えていってしまったものがどうして消え、不便でも残っているものはどうして残ったのか、そこまで考えさせることもできるだろう。無駄や手間こそが、思いを伝える手段として意味を持ってくる。だからこそそれより便利な手段が出てきても消えずに残っている、とも言える。
もしかしたら、あの学級の担任の教師は藤村の後を引き継いでそうしたことまで考えさせようとしているかもしれない。そうでもしなければ、彼らの価値観を変える事などできるはずもない。
しかしそうやって、教師が導いて考えさせること以上に重要なのは、この場で単純に納得しない、という態度だろう。
「便利なものがいいに決まっている」のに、どうしてこの人はそうじゃないものにこだわるんだろう、という違和感を保ち続けさせることこそが必要なのではないか。この藤村の授業はそれに対し安易に解決を与えてしまい、むしろ子どもが考え続けなくてもいいようにしてしまっている。
僕自身において、何か価値転換が起こったきっかけはいつもそのような違和感だった。僕自身の経験だけを単純に一般化できないのかもしれないが、少なくとも間違いなく言えるのは、すぐに変わるような行動では、深いところにある価値観が変わっているなど確認できないということだ。
便利な家電製品と同じように、専門家さえ連れてくれば簡単に教育は行えるという安易な思い込みを撒き散らしてしまったという意味で、この番組はむしろネガティヴな効果を及ぼすだろう。

2007年9月23日 (日)

地域での子育ての一モデルとして

NHK ETV特集 (2007/9/23) ごたごた荘の人々

 ごたごた荘は東京練馬の無認可保育所だ。行き止まりの路地の奥に立つ古めかしい建物にこどもたちの声が響く。
この保育所の特徴は、保護者と保育士が一体となって、保育所の運営方針決定から、目の前にいる子どもたちへの直接的な注意・指導まで一緒に進めていっていること。そして、違う年齢の子どもたちが兄弟姉妹のように一緒に育てられていることである。幼い子もより小さな子の面倒を率先して見ている。
 保育所にまかせっぱなしにせず、またお客としてただ文句をつけるだけでもなく、自分の子も他人の子もわけへだてなく保護者がみんなで一緒に子育てしている姿に感激した。また子どもたちが不器用ながらも一生懸命お手伝いをしている姿にも心打たれた。
 こういうやり方がもっと多くの保育所に広がって欲しい。そのためにどんなことができるか考えてみたい。
 

2007年9月 1日 (土)

教育は子供のためでも国家のためでもない? 宮台批判

 WEBを検索していたらたまたま宮台氏のブログにたどりついた。
 その記事「教育神話解体:教育は子供のためでも国家のためでもない(教育社会学会大会[招待]報告要旨」だが、
 
 教育は社会システムを首尾よく回す手段であって、たとえば学校で子どもが幸せになるための手段ではないっていうんだけど、これって教育にまともに携わっていない人の言いそうなことだよなぁ。
 
 教育が社会システムの一部だって認識は正しい。でも手段っていうのは、行為主体があって目的を持って行動しているときにしか言わない。社会システムっていうのは勝手に動くもので、教育はその一部をなすサブシステムだけどその手段などではない。
 宮台氏はここで教育が如何にあるべきかを論じているのだと思うが、--そうでなければ「不登校・学力低下・荒れた教室を初っ端から問題視する」ことは問題にならない--ただ自然に回っている社会システムの方向性を教育の目的とすることはいわゆる自然主義的誤謬そのものだ。宮台氏はそれを「首尾よく」という言葉で回避しているが、「首尾よくまわす」って、子どもたちが幸せになることと違うのなら、一体どういう意味なのだろう。

 宮台氏は、《「仕事での自己実現」を目指す創造的エリートと、「消費での自己実現」を目指す消費大衆を生み出す》ということをここで「社会システムが首尾よくまわる」実例に挙げ、そうした政策実現の失敗の原因を、「キャリア形成の機会均等化ばかり重視する(格差論)」、社会ではなく個人の視座に傾いた教育論に求める。

 しかし、「キャリア形成の機会均等化」が「個人の視座」だと切り捨てるのは、それこそ虚妄ではないだろうか。「機会均等」は社会としての一つの理想足りえるものだ。一方「消費での自己実現」などは、消費が垂直の差異化の欲求に基づいている限り、社会全体としての理想たりえない。

 またここで仮に立派な教育目標を、彼のいう「エリート」が設定できたとする。それでも、現実の教育場面において何をしたからそれがめぐりめぐってその後の子どもたちの人生にあるいは社会に、それがどのような影響を与えるかなんてほとんど何も分かっていないに等しいのだ。
 その中で教師はかろうじて子どものとりあえずのニーズを満たしつつ、子どもが成長したという手ごたえだけを頼りに試行錯誤しながら、あるいは自分が教えられた方法をただ繰り返しつつ、日々の教育を行っているに過ぎないのである。

 たとえていうなら、宮台氏は完璧な地図とGPSを備えた船を前提にそれをどう導いたら良いか議論しようとしているように見えるが、現実の教育はいつ沈むかも分からぬ小さな帆船で曖昧な地図と羅針盤だけを頼りに風任せで航海しているようなものなのだ。

 そこで子どもが少なくとも苦しんでいないかどうかは、船が少なくとも逆行していないかを知るための数少ない頼れる指針であって、それも失えばただ波間に漂う板切れと変わらぬ存在となってしまうだろう。
 
 もちろん教育が、他のものを蹴落とすための技術習得だけになってはいけない。宮台が「個人の視座による教育」として、そのようなものを意味するのなら、もちろんそれは当然批判されるべきだし、「社会の視座」が必要だというのもその意味でなら納得できる。
 
 しかし、学校において子どもたちが明らかに苦しんでいる状況において、非常に曖昧で不確実な「社会システムを首尾よくまわす」という目的のために、それを放置しても構わないほど、教育の技術は発達しているとはいえないだろう。

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