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2007年9月 1日 (土)

教育は子供のためでも国家のためでもない? 宮台批判

 WEBを検索していたらたまたま宮台氏のブログにたどりついた。
 その記事「教育神話解体:教育は子供のためでも国家のためでもない(教育社会学会大会[招待]報告要旨」だが、
 
 教育は社会システムを首尾よく回す手段であって、たとえば学校で子どもが幸せになるための手段ではないっていうんだけど、これって教育にまともに携わっていない人の言いそうなことだよなぁ。
 
 教育が社会システムの一部だって認識は正しい。でも手段っていうのは、行為主体があって目的を持って行動しているときにしか言わない。社会システムっていうのは勝手に動くもので、教育はその一部をなすサブシステムだけどその手段などではない。
 宮台氏はここで教育が如何にあるべきかを論じているのだと思うが、--そうでなければ「不登校・学力低下・荒れた教室を初っ端から問題視する」ことは問題にならない--ただ自然に回っている社会システムの方向性を教育の目的とすることはいわゆる自然主義的誤謬そのものだ。宮台氏はそれを「首尾よく」という言葉で回避しているが、「首尾よくまわす」って、子どもたちが幸せになることと違うのなら、一体どういう意味なのだろう。

 宮台氏は、《「仕事での自己実現」を目指す創造的エリートと、「消費での自己実現」を目指す消費大衆を生み出す》ということをここで「社会システムが首尾よくまわる」実例に挙げ、そうした政策実現の失敗の原因を、「キャリア形成の機会均等化ばかり重視する(格差論)」、社会ではなく個人の視座に傾いた教育論に求める。

 しかし、「キャリア形成の機会均等化」が「個人の視座」だと切り捨てるのは、それこそ虚妄ではないだろうか。「機会均等」は社会としての一つの理想足りえるものだ。一方「消費での自己実現」などは、消費が垂直の差異化の欲求に基づいている限り、社会全体としての理想たりえない。

 またここで仮に立派な教育目標を、彼のいう「エリート」が設定できたとする。それでも、現実の教育場面において何をしたからそれがめぐりめぐってその後の子どもたちの人生にあるいは社会に、それがどのような影響を与えるかなんてほとんど何も分かっていないに等しいのだ。
 その中で教師はかろうじて子どものとりあえずのニーズを満たしつつ、子どもが成長したという手ごたえだけを頼りに試行錯誤しながら、あるいは自分が教えられた方法をただ繰り返しつつ、日々の教育を行っているに過ぎないのである。

 たとえていうなら、宮台氏は完璧な地図とGPSを備えた船を前提にそれをどう導いたら良いか議論しようとしているように見えるが、現実の教育はいつ沈むかも分からぬ小さな帆船で曖昧な地図と羅針盤だけを頼りに風任せで航海しているようなものなのだ。

 そこで子どもが少なくとも苦しんでいないかどうかは、船が少なくとも逆行していないかを知るための数少ない頼れる指針であって、それも失えばただ波間に漂う板切れと変わらぬ存在となってしまうだろう。
 
 もちろん教育が、他のものを蹴落とすための技術習得だけになってはいけない。宮台が「個人の視座による教育」として、そのようなものを意味するのなら、もちろんそれは当然批判されるべきだし、「社会の視座」が必要だというのもその意味でなら納得できる。
 
 しかし、学校において子どもたちが明らかに苦しんでいる状況において、非常に曖昧で不確実な「社会システムを首尾よくまわす」という目的のために、それを放置しても構わないほど、教育の技術は発達しているとはいえないだろう。

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