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2008年11月16日 (日)

母を訪ねて三千里

NHKの衛星放送で、僕が子どもの頃のアニメ「母を訪ねて三千里」を見ている。

この話の中で、主人公のマルコはよく怒っているんだけど、そういう感情の激しさって、
今ではなかなか理解できないものがある。
同じことを「宇宙戦艦ヤマト(ファーストシリーズ)」の主人公の古代クンにも感じた。マルコが成長したら古代クンになるんじゃないかという感じだ。
おそらく当時の人たちは、この怒りにきっと感情移入しながら見ていたのだろう。

ケンパーの感情の社会学理論から考えると、この怒りが意味しているのは、社会状況に対する規範意識の強さ(「○○べきだ」)と、その状況を変えることができるという信念なのだろう。
逆にその怒りに感情移入できない僕らは、社会のありように対する「そういうものだ」という状況の受け入れと、「どうせ変わりはしない」という無力感が身にしみているのではないかと思える。

同窓会

小学校の同窓会に行ってきました。卒業以来25年ぶりに会う人たち。
楽しかったというより、とても幸せな気持ちでした。
暖かいものに包まれるような感じで。直接そんなに話ができたわけではないけど、みんなの幸せそうな顔と声を聞けただけで胸がいっぱいになりました。
ふるさとという言葉のイメージって今まであんまりなかったんだけど、これがそうなんだなあと強く感じました。
僕はその中で一人だけ中学受験して別の学校に進んだんだけど、中学に進んだ後も、あのクラスの仲間の中に互いに交流を続けてた人たちがいて、
またそうでなくても、やっぱり小学校最後の二年間を毎日一緒に過ごした仲間の絆は強かったんだなぁと。
この仲間を大事に思っていたのは僕だけじゃなかったんだって、とってもうれしかった。

同窓会の前後でも、仲の良かったグループの子たちとメールのやりとりもして、25年間の空白を埋めています。

2008年11月 1日 (土)

西洋美術館 ハンマースホイ展、国立博物館 大琳派展

史生を預けて行くはじめての、妻とのデート。
史生が昨晩大泣きしてちゃんと眠れず、なのに僕は別室で何事もなかったように
ぐーぐー寝ていたもので、朝起きたときの妻の機嫌は今ひとつ。

でも今日は二人にとってずっと待ちに待った日だったもので、
「すっごいたのしみだねぇ」とか何とかいいつつ妻をなだめながら、史生が吐いたミルクの後片付けをしてたりすると、妻の機嫌も戻ってくる。
しかし、預け先に告げている予定の時刻は迫るものの、史生はまだくーくー寝ているので、教育テレビをつけ、カーテンを開ける。
彼の大好きな「いないいないばあ」のオープニングテーマがはじまると、目を閉じたまま、「いないいないばあ」の歌詞にあわせて「ばあ」とか言いながら、そこそこ気持ちよく目が覚めたようだ。

適当に朝食を済ませ、車に乗り込み、預け先の保育園へ。「おでかけ、楽しみだねぇ」とかいいながらだまして楽しく連れてこられた史生は、まず車からうちの奥さんにおぶわれ、僕がすぐついてこないので泣き、さらに保育園の玄関先で母からも引き離されて、さらに泣きわめくが、どうしようもないのでそのまま預けて、駅に向かった。
さすがに気がとがめているようで、奥さんは、東京までの電車の中、しばしば「史生はもう泣いてないかなぁ」と口にしていたが、僕は今回はこうして預けるのが二度目だし、保育園の先生に直接引き渡したのは妻だったこともあって、「きっと今頃楽しく遊んでるよ」と慰め役に回っていた。

というようなイベントもあって、今回見てきた二つの展覧会だったが、両方とも期待通りあるいは期待以上のものだった。
史生も少しは外に出したほうがいい、という理性的な考えとは別に、やっぱりかわいそうなことをしているという気持ちもどうしてもあるから、そういう犠牲を払ってきてるんだという反動でのハイテンションというのもあったかもしれないけれど、琳派展の酒井抱一は特に素晴らしかった。

体力的には琳派展でかなり力を使い果たしてはいたんだけれど、せっかく東京まで来たんだしと、ちょっといいかもというくらいで入ったデンマークの近現代の画家ハンマースホイも、期待以上に個性的な人だった。

勤務先の大学にチラシが貼ってあって、煙るようなタッチが叙情的でちょっと楽しいかもと思ってみたハンマースホイだったけど、実際に作品群を一つ一つ見はじめていくと、展覧会のオープニングの数作品の時点ですでに、画家に対する印象はすっかり変わってしまった。
特に僕がひきつけられたのは、《リネゴーオンの大ホール》(1909)。
そこに描かれているのは単にがらんとした部屋にすぎないのだけれど、絵を見ているというよりはその部屋に自分が置き去りにされて、途方に暮れているようなそんな気持ちになっていく。
「絵の世界に引き込まれていく」という言葉があるが、まさにそんな思いだった。現実感覚さえ奪われて、自分がどこにいるのかわからなくなるようなそんな力を絵に感じたのは、それがはじめてだったかもしれない。
ただ大きな展覧会を見た後だったから、生活感の消された部屋にたたずむ人物の後姿や、その人さえ消え去った無人の部屋を、同じスタイルで偏執的に何枚も何枚も描かれているのを見ると、それらにこめられた画家の思いにひとつひとつつきあっていくだけの体力が残っていなかったのが残念。
なお展覧会では、彼が何枚も何枚も描いた、家具のほとんどないがらんとした「自宅」の内部のコンピューターシミュレーションが公開されていた。まさにそんな形で、その世界にじっくり入り込みたくなるような作品で、このシミュレーションを作ってしまった人の気持ちがとてもよくわかった。

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