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2009年2月15日 (日)

あきらめること、について

「昭和初期のカラー映像」という記事について、友人からコメントをもらった。

 昔の人たちのたたずまいの美しさに感動したこと、そうした美しさはもしかしたら、「あきらめ」を知っていることによるのだろう、ということ。「あきらめ」ってネガティヴにとらえられがちだけれど、それは一種の人生に対する覚悟みたいなもので、そこから僕らは多くを学べるのではないか、といった内容だった。

「昔の人たちはあきらめることを知っていた」という実感は僕もある。

 たとえば学生さんを見ていると、僕らの年齢とたかだか20くらいちがうだけなんだけど(ってよく考えたら、倍は違うんだな(汗))、

でもそのたった20年くらいの間にも、「あきらめる」っていうことがずいぶんなくなってきている気はする。

 言い方は厳しいかもしれないけれど、覚悟を決めずにずるずる就職浪人したり、勉強を特にしたいわけでもないのになんとなくモラトリアムで大学院進んだり、という人がすごく増えているように感じられる。

 そしてそれは少しも他人事ではなくて、僕自身だってちょっと上の世代からみたら同じように見えるのだろうと思う。同世代から見てもそうなのかもしれない。そういう意味では良くも悪くも時代の先端をいっている気はする。

 今僕は「文学部唯野教授」みたいな、大学の授業を再現するような類の小説を(無謀にも)書きはじめているんだけど、実際に書いてみると、文章の文法みたいなものが意外にわかってないことがわかってしまった。

 セリフと地の文をどうやって使い分けるか、とか、場面転換をどうしたらいいのか、とかそういった、きっと高校や大学の文学同好会みたいなところで同人誌とかを作ってきた人なら必ずなんとなくわかってるようなことがわからない。小説を読むときにはちゃんとそういう文法を理解して読んでいるわけなんだけど、読むのと書くのとじゃ大違いなんだね。

 で、訓練のために試しにマンガ(よしながふみの短編)のノベライズを一本やってみた。それで、ちょっとコツがわかってきたので、今度は英訳された日本語の小説を和訳し直すという作業を今やってみてる。

 何回も何回も読んだはずの作品(村上春樹の「午後の最後の芝生」という短編)なんだけど、なかなかそれらしい表現を見つけるのが難しくて、作家ってすごいんだなあということをあらためてしみじみ感じてる。

 さて、こういうたぐいの「勉強」とか「訓練」って、仕事でやってる「勉強」や「訓練」とはずいぶん違って、すぐに成果が出るようなものではない。それはある意味、人生の可能性を広げるようなタイプのものだ。

 陶磁器の職人さんが研究に研究を重ねて、新しい色を出す、とかそういう種類の努力とはまったく違った種類のものだと思う。

 今ではそういう「勉強」をカルチャースクールみたいなところで、一種の「遊び」としてやることができる。今僕がやっているようなことは、きっとカルチャースクールの「小説を書いてみよう」みたいなコースできっとやっているようなことだ。そういう余裕っていうのはやっぱり過去の日本人の多くにはなかったものだろうと思う。

 でもやればできるという可能性は確実に存在してる。音楽だって、自分でCD作ってみてわかったけど、プロが作ってるものとそう質の違わないものが、ちょっとした投資と時間をつぎ込むことでアマチュアにもできてしまう。それで食べていくことはとてもできないけれど、それでもプロがつくっているものと同じ値段を出して買ってくれるような人がちゃんと存在する。そのくらいのものがアマチュアでも作れてしまう。

 文章だって、地方紙の新聞でプロの記者が書いているお粗末な文章よりもよっぽど気の利いた文章を書ける人がいくらでもいて、ブログが有名になったりもする。

 そういう可能性っていうのはかつてはほとんどなかったはずだ。アマチュアの人が文章を他の人に読ませるような場というのはなかなか見つけられなかっただろう。よっぽどの覚悟を決めて早い段階から人生をそっちの方向に絞っていかない限り、誰かに読ませる文章を書くような機会なんて得られなかった。でも今は違う。

 今でも、それで食べていこうと思ったら、かつて以上に競争が厳しくなってるわけだから、それはすごく大変だけれど、でもセミプロくらいのところなら、才能があって努力すれば、たとえばこのくらいの年齢になってからだって、結構何とかなる。

 昔の人の伝記とか読むと、特に立身出世した人たちの多くは、すごく無鉄砲にがむしゃらにやって成功した、という人たちが結構いる。たぶん今の子どもたちは情報がたくさんあるから、きっとそういう無鉄砲さはだいぶ失われているのだろうと思う。でもその無鉄砲さというのはあくまで若い頃のものだ。そして同じように無鉄砲なことをやって失敗した人たちのほうがずっとずっとたくさんいたはずで、ぼくらはたまたま成功した人の事例だけを歴史の中で見ているにすぎない。

 その一方で、年をとってから、何か新しいことを勉強して、そこそこのレベルまで行くということは、間違いなくずっと簡単になっている。僕らはそういう可能性の中に生きている。プロとアマチュアの差はとても小さくなっている。

 友人が言うように、こういう今の時代のありようというのは、必ずしもいいことばかりとは言い切れないようには思う。可能性がそこにあっても、目をつぶって前だけ見て進むこともできるはずだ。いわゆる研究者という職業についた多くの僕の同僚はそういう生き方をしている。そうしないと専門家として大成できないということもあるのかもしれない。

 正直迷いはずっとあるし、これからもそうだろうと思うけれど、ただ数年前からよく思うのは、どういうふうに生きたところで、それも一つの人生だということ。

 いろいろ可能性が広がったとはいえ、生きられた人生の現実はいつも一つ。その人にとっては悲惨に思われるような選択になるかもしれないけれど、それも一つの人生なのだなと。

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