2007年6月 3日 (日)

テレプシコーラ 第一部 (山岸涼子) ネタバレ

 姉妹のやりとりがものすごくリアルに描かれた作品だった。積極的で何でも一番の姉と、おっとりした性格で甘えん坊の妹、というような組み合わせはこれまでにも何度でも描かれてきただろうが、妹の視点から、姉を過度に理想化せず、かといって過度に敵視もせず、普通に親切で普通に意地悪でというバランスをここまで表現しきった作品も珍しいのではないだろうか。

 しかしそのように、妹の視点からリアルに造形されたキャラクターであるからこそ、この結末は痛かった。取り乱して号泣し、そのあと一日中気持ちを暗くさせ、このような結末を準備した作者に怒りさえ覚えるほど、この結末は痛かった。しかもその結末へは、<今>の連続する現実世界とは違い、物語のスタート時点から点々と伏線が引いてあり、語り手はこのエンディングをはじめから意識しつつこの物語が語られていたことに、後から気づくのだ。

 この作品は僕らに一つの真実をはっきりと伝えてくれる。「自分」という特定の人物の運命に、生きることの意味のすべてを賭けると、そのすべてを失う可能性があるということである。

 個人化の進むこの現代は、そのような生き方こそが我々に許された唯一の選択肢であるかのような幻想をふりまいているが、過去に目をやれば他にも様々な生き方がありえることを知るだろう。

 僕の研究の進展は、そのような人生観からの解放をきっともたらすことができると信じている。

2005年4月27日 (水)

寄生獣

 大方の人の反応も僕と同じだろうが、特にスプラッタ系のホラーの苦手な僕は、第一印象で敬遠していた。岩明がこの「寄生獣」の次に書いた「七夕の国」はなかなかのできだったし、「寄生獣」が彼の出世作であることは間違いなかったので、とうとう読んでみることにした。

 結論から書くと、確かにグロいものを全く受け付けられない人にはお勧めできないが、多少なら我慢できるという人にはぜひ読んでみて欲しい。
 
 テーマのひとつは、人間以外の高等知能の生物から、人を見るということ。そうした視点から見ると、僕らがいかに同じ生物としての狭い共感の上に文化を築き上げているかを再確認できると思う。自分の認識の基盤のさらなる相対化のために、こうした思考実験は非常に重要だと思うのだが、こうした内容をテーマにする作品は意外に少ないように思う。たとえば手塚治虫のアトムとか? あまり思い浮かばない。それだけ貴重な作品だと思ってよさそうだ。
 
 そうした哲学的なテーマとは別に、あるいはそれと上手にからめつつ、人を愛し迷いつつ敵から逃げ、そして戦う、といった普通のドラマとしてもとても上手にできごとを配置し、適度なスリルと共感をひきこむように上手に描かれている。物語をはったりであまり壮大にせず、ひとりひとりの登場人物の思考を追うことで理解できるようなレベルにまとめていることも好感が持てる。

2005年3月16日 (水)

村上かつら短編集1,2

今年の小原賞に次点として「サユリ1号」を挙げたが、今回は彼女の初期短編集について。
彼女のこのあたりの短編って、たとえば「天使の噛み傷」のように、「たのまれもしないのにフェラチオをする女」みたいな、男にとってちょっと都合の良い女性がヒロインだったりするものが多い。でも彼女の作品の良さは、そういう読者サービスを越えたところにあるように思う(注1)。
たとえばこの「天使の噛み傷」だけれども、<やれる女とやらない美学>の自己肯定の物語と言えなくもない。でもそこには重い葛藤が用意されていて、そうした葛藤のさきにある<やれる女とやらない美学>は新たな意味を持ちはじめるように構成されている。そうした意味は、たとえば自分がやらずに大事にしていた女を、さきにやってしまう男が出てきたとき、その彼とどういうような関係を持つか、というところにも現れているように感じる。
 
彼女の絵は、石坂啓や岡崎京子におそらく影響を受けているが、性の扱い方にもこの二人の延長上にあるような気がする。この二人のマンガが好きな方にはぜひお奨めしたい。
 
 
注1 どうしてそういう部分を「抜きにしなければいけないのか」だけど、文学って、「現実はこうだけれど、こんなんだったらいいのにな」という安易な妄想であってはいけないと思うから。
そういう安易な妄想って、ひとつの欲求不満を満たすとさらに自己満足のレベルがつぎつぎに上がっていって、現実との距離が開いていく中で単に虚しいだけのものになっていきがちだから。カントが、嘘は社会関係の中で自己矛盾に行きつくしかないから、人の行動原理として否定すべき、としたのと同様、そういう妄想はシステムとして袋小路に落ち込んでいくしかないから、それははじめから否定しておいたほうがよいだろうということ。
もっともいろいろな漫画家の作品の変遷を見ていると、そういう<袋小路>をいったんきちんと経験してから、それを突き抜けるような作品を描くようになる、ということはあるかもしれない。そういう意味では、マルクスが資本主義を共産主義へのステップとして評価したように、袋小路のマスターベーション的妄想もちゃんと意味があるのかなあ (今日はさっき「弁証法」についてちょろっと書いたので、なんか思考がそういう方向に行きがちかも)。
もっとも「こうだったらいいなあ」という妄想が、今の現実を否定して別の現実を作り上げようという力にもなったりするとは思う。すごく古典的なプラグマティックな発想だけれど、僕はそういう作品が好きだ。
2015年9月
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