2006年10月25日 (水)

[ADD/ADHDという才能

ADDというのはAttention Deficit Disorder(注意欠陥障害)の略、ADHDはそれにHyperactivity(多動)が加わる。

最近こうしたこどもが増えている、というのが教師の実感のようだが、ADD/ADHDは(特殊な例をのぞき)先天的な障害のため、教育や環境などで増えるはずもなく、おそらくこれまでは教育的に抑え込んでいたのが、個人主義的な社会の風潮の中で抑え込みができないケースが増えてきたものと思われる。

この本の主張は二点あり、
1 ADD/ADHDに見られる注意力散漫な傾向は、ふつうの人にも見られる傾向で、その違いは程度の問題に過ぎず、反対側の極には注意力が固着しすぎる、というタイプも存在する。
2 ADD/ADHDに見られる注意力が分散される傾向は、人類が淘汰の圧力にさらされた狩猟採集生活という極めて長い時間に、特に狩猟において必要な能力として適応進化したものである。

このうち1の主張は経験的に容易に検証できるはずの仮説だが、この本の中でそうしたデータが出されているわけではない。ただし素人目からはなかなか興味深い仮説ではある。
 たとえば、世の中には「一つのことに長い間打ち込み、飽きることない」という「狭く深く」タイプと、「たくさんのことに興味関心を持ち、何にでも手を出すが、比較的すぐ飽きてしまう」というタイプが存在している。この二つのタイプはある程度は教育によっても育てられる気もするし、同じ人でもその人がもともと持っている他の様々な才能の分布具合によっても変わってくるだろうが、生まれつきの性格という部分もやはり大きいだろう。
 1の仮説が主張するのは、このような「専門家タイプ<>ジェネラリストタイプ」の別は、そうした長期的活動に関することだけではなく、短期間の集中状態とも関係する、ということである。すなわち短期的にもものごとに目移りせず一つのことに集中できる人は専門家タイプになりやすいし、そうした集中がしにくい人はジェネラリストタイプになる。
 ADHDの人にいろいろな計画に手を出しながらなかなかそれぞれの計画を完遂できない、という傾向があるとすれば、こうした「短期から長期」という矢印はある程度認められそうだが、その逆は疑わしいかもしれない。つまりジェネラリストタイプの人が、短期的に集中できるかどうかは別の問題とも思える。
 ADHDに関して、専門家が書いた文章(たとえばhttp://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/ )を見ると、必ずしもそのようなことは言えないような気がしてきている。

2006年1月13日 (金)

厭世フレーバー

とても力のある文章だった。特に第一章。うざくて、めんどくて、何もしたくない、という投げやりでネガティヴな勢いが、どこかでポジティヴなものに変わる。しかもそれを単純に明るいストーリーに持っていかない粘り強さがいい。そうしたエネルギーをつつむ家族全体の構図、歴史が章を追うごとにだんだん明らかにされていくのだが、ちょっと小さくわかりやすくまとめすぎた感があったのが残念と言えば残念だけど、放り出していないだけ、これからの可能性を感じさせる作家。

ちなみに同時に読んだ「川の名前」(川端 裕人)冒険ものとしてストーリー的には楽しめるけど、いかにもひとりの大人の頭の中だけにある世界という感じははじめから最後までぬぐえない。「あの頃ってこんなことを感じていたな」というようなリアルさはあまりない。そういう意味では奥田の「サウス・バウンド」も同様。

2005年7月24日 (日)

風神秘抄

 大好きな荻原規子の新作だが、これは残念ながら今ひとつのできだった。
 
 彼女が書いてきた「西の良き魔女」シリーズや「勾玉三部作」などのファンタジーは、大人も十分楽しむことができるはずだが、それがなぜ児童文学に分類されるのか考えてみると、やはりそれぞれの年代の発達課題に対応しているからだと思う。単なる娯楽作品だと、大人から見て、こどもたちが一体何が面白くて読んでいるのかまったく共感できないような本も多々あるが、荻原作品に限らず、大人も楽しめるような児童文学には、いわゆるビルドゥングス・ロマン的な要素がいつもあるように思う。
 
 それらを楽しむ大人の心情というのは、単なるノスタルジーというよりは、自分が現在さまよいこんでいる「手段=目的」の連鎖のなかで見失いつつある本来の方向性といったものを、初心に戻って再発見する、そういう意義があるように思う。あるいは、デュルケームが社会における宗教の機能を考えるのに、まずもっとも原始的と考えられる社会の分析からはじめたように、よりシンプルな世界において、自分が現在抱えている問題をわかりやすく考えよう、という意義があると言ってもいいかもしれない。
 
 そうした観点から見るとこの作品には相当不満が残る。なんと言っても主人公が意味のある選択にさらされないのだ。
 物語の前半を支えるそうした意味での選択は一応次のようなものだ。すなわち、自分の仕えていた主人への忠誠心、あるいはそうした忠誠心に代表されるような武士としての生き方をとるか。あるいはより個人主義的な「自分のために」生きるか、というものだ。主から離れ、盗賊ともに生きていく間に、盗賊の首領に影響を受けるかたちでの葛藤がある。しかしこうした葛藤が現代性を失っているのは明らかだから、作者はあまりそうした時代錯誤な葛藤には踏み込まず、話は中盤で大きな展開をみせる。
 主人公とヒロインとの出会いがあって中盤に入っていくが、ここにある葛藤は、追求すべきはっきりした目的は自覚した上で、ではどの手段をとったらその目的に適っているか、というレベルのものでしかない。その目的とは、ヒロインとの生活を守ることであり、その上で、ヒロインの意見に従うべきか従わないべきか、というものだ。ここでヒロインは主人公の選択に抵抗を示すが、それはゲド戦記と同様、<<魔法を個人的な欲望のために用いて、世界の調和を乱してはならない>>というような原則に従ってのことである。
 しかし重要なことは、主人公はヒロインのこうした葛藤をよくわからずに選択をしてしまう、ということである。だからヒロインの葛藤は主人公のものにはならないし、読者にとっても同様であるように感じる。少なくとも男の子は同性の主人公に感情移入して読むだろう。
 女性の立場から見れば、ここはある種自虐的な鶴の恩返し的選択になっている。もし訊ねたら、相手がどうしたいかわかっていて(きっと、どうしてそんな美しい布が織れるのか、その理由を知りたいだろう)、しかもその通りにしたら二人双方にとって悲劇的な結末が待っている(別れ別れになるしかない)こともわかっていながら、それでも男に決断をさせ、それに従う、という構図である。
 主人公から見れば、ここは、訳の分からぬうちに運命に翻弄される、そうした転換点である。ここで彼は<<魔法を個人的な欲望のために用いて、世界の調和を乱してはならない>>という原則を学ぶのだが、そうした学んだことを生かすわけでもない。
 終盤における選択は、自己のパワーに目覚めた主人公が、そのパワーを用いて、この世の権力者として君臨するか、それともそれを恋の成就のために用いるか、というものになっている。しかしこの選択は、権力者であることの負の側面ばかりが強調された挙句のものであるため、実質的な意味を持たず、ほとんど何の葛藤もないまま、主人公はあっさり恋のためにパワーを捨てる。彼はその結果同時に様々なものを失うが、それは結果論でしかない。
 どうしてこんなことになってしまったのかというと、一番重要なことは、「恋に生きる」という以外の選択肢に必然性を持たせることができなかったことが大きいだろう。しかも序盤を支える葛藤が後半につながってこないのも痛い。それに関係するが、主人公とその恋人以外の登場人物の生き様が十分掘り下げられていないのも問題だ。特に後半はほとんど二人の世界になってしまう。
 
 荻原規子の力量はこんなものではないはずだ。次回作に期待したい。

続きを読む "風神秘抄" »

2005年3月10日 (木)

終業式 姫野カオルコ

終業式

手紙、FAXなど、登場人物が書いた文章だけで語られるちょっと実験的な雰囲気もある小説。ただしストーリーや登場人物たちには、いつもの姫野の小説に見られるような不思議な設定は存在しない。

もっとも手紙などだけで物語を進めるという方法をとりつつも、<下宿の大家さんが、電話の声に対してすぐ文句を言う>とかいう設定を利用して、それほど筆まめでないはずの登場人物にもいっぱい手紙を書かせたり、「投函されなかった手紙」と「実際に投函した手紙」を両方出してみせたりすることで、「手紙」という制約の中でも十分に登場人物たちのおかれた状況や心理などがよくわかるように工夫されている。手紙のひとつひとつのディテールは嫌になるほどリアルで、文章はそれぞれの書き手の性格を上手に描き出している。

物語は高校の同級生、男の子二人、女の子二人の親友同士を中心に回っていくのだが、この4人は誰もがとても真摯な性格で、真面目に恋に立ち向かい、それをそれぞれが文章に残している。このことが、この小説のちょっと古風で爽やかな雰囲気を醸し出している。ただこの小説が18世紀に流行ったようなよくある書簡体小説と違うのは、彼ら四人がそれぞれの恋愛を通して関わるたくさんの人々がそれぞれに書き残した文章までを含めて物語が進行していくことで、心理小説に見られるようなロマンティシズムを感じさせない構造になっている。たぶん姫野の美意識が、モナリザにひげを書かせるのだと思う。このあたりが好みの分かれるところだろう。

姫野はその後「ツ、イ、ラ、ク」では同様に拡散していく物語を最終章で力強くまとめてみせたが、「安易に流れることを拒否する」姿勢をつらぬきつつ、正統派の小説をまっすぐに書けるようになったのは、それだけの自信をつけたということを意味しているのだろう。しかしこの小説は小説で連作短編風にひとつひとつの物語を読み込むという楽しみ方もありそうだ。

ちなみに僕がこの小説の中でもっとも感情をゆさぶられたのは、都築と桜井のエピソードだった。

 

2005年3月 7日 (月)

マンガを解剖する

最近夏目 房之介 をいくつか読んでいた余波で、布施 英利の「マンガを解剖する」も書店で見かけて読んでみた。しかしこれがひどい内容。芸大出身で、なぜか養老孟司の研究室の助手も勤めていたらしいのだが、それぞれの分野での奥の浅い薀蓄で粉飾して、夏目の物まねのマンガ分析をやってみた、という本だった。

共感覚者の驚くべき日常

共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人を読んだ。共感覚という現象(たとえば酸っぱさを感じるとき、同時に手のひらにとがった触覚を感じ、甘さを感じるときに丸み触覚を感じるなど)について、それが脳のどのような部位で生じ、その時脳ではどのような物理的現象が起こっているのか、ということを追求していったある医者の半生を自伝的に書き記した本。

共感覚という現象自体が非常に興味深いが、それを解明するためにどのような手順を踏んでいったか、という「科学の実践」を克明に追った文章として大変優れている。ぜひ学生に読んで欲しいと思った。

この本のひとつの論点は、機械などの検査結果のみを信用して、そうした結果にあらわれない患者の主観的感覚を無視することがいかに問題かということにある。そして、ほとんどの医者がそういう傾向に陥っていると批判する。その上で、機械などによる検査に頼らずとも、患者の報告と対象群のデータとの比較だけを材料にして、患者の主観的報告内容を客観的に検証することが可能なのだ、ということを示した点でも大変興味深い。

 

 

2015年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ