2008年12月10日 (水)

新曲

新曲の楽譜がやっと完成。楽しく弾いています。

調査のための必要な物品などがなかなか届かず、自分の段取りの悪さにうんざりする毎日。また毎週月曜、火曜日にやってくる看護学校と看護学部での非常勤の授業もチャレンジングで、試行錯誤を重ねつつも、週末になるといつも胃が痛くなります。

そんな疲れきった僕の、現在一番のオアシスになっているのが、この自分の新曲。

仕事や子育てに疲れた心をきっと癒してくれます。おすすめ(笑)。ぜひダウンロードして聴いてやってくださいね。

僕は、小学生時代の習い事をのぞきほぼ100%独学で音楽をやってきたので、自分の曲がどのように作られているのか、直感という以上に理解できないのですが、即興で弾いているだけなのに妙に複雑なリズムができあがっていて、楽譜を作っていると自分でも感心します。頭ではとてもこんな曲できません。体で、楽器とともに考えているのだなあと、いつも考えさせられます。

2008年12月 4日 (木)

ひさびさの新曲発表

子どもが生まれてからはじめて作った新曲をMIDIで発表しました。みなさん聞いてやってください。

昨年の秋にUPした曲は、おなかの大きな妻と生まれてくる子どものために書いた曲だったから、生まれてからはこれがはじめて。

以前はふだんから気が向くとピアノの前に座り、即興で曲を作っていましたが、現在はピアノのある居間が史生の遊び場兼寝室となったため、彼が奥さんと外出中の間にだけしかピアノを集中して弾くことができなくなってしまいました。でも彼もだいぶ人がましくなり、妻の子育ても少しだけ余裕が出てきたので、そろそろ僕も好きなことをさせてもらってもいいかなあと思い始めています。

今回の「秋の上野公園」は、史生をはじめて一日預けて東京まで妻とデートにでかけたときの思い出を曲にしたものです。そのとき見たハンマースホイ展についてはここにちょっとだけ書きましたが、この曲は色づいた木々や大きな噴水、ちょっと肌寒い空気などの印象に基づいています。それと久しぶりに、妻と二人きりでのデートの開放感かなぁ。よかったら聞いてやってください。

2006年11月27日 (月)

エルミタージュ展、ベルギー美術館展、浜松国際ピアノコンクール、楽器博物館

週末は上野で美術館をはしごして、浜松国際ピアノコンクール本選、六名の演奏を二日間で堪能した。

上野では東京都美術館の大エルミタージュ美術館展と、西洋美術館の王立ベルギー美術館展。

前者が期待はずれだったので、口直しに見たベルギー美術館展が大当たりだった。

エルミタージュのほうは、こぶりな作品が中心で一つ一つのインパクトに欠けた。作品群もひとつひとつ全くばらばらでテーマ性も薄く、ほとんど印象が残らない。

ベルギー美術館展のほうは対照的に、大きいものから小さいものまでそれぞれとても個性的で魅力的な作品が並び、かつそれらを括る「ベルギー美術」というテーマ性もはっきりしていて充実感があった。今回特に面白かったのがアンソール。

午後からは浜松へ。浜松の駅前は開放感があり、宇都宮駅前の醜さを思い出して悲しくなった。再開発の結果なのだろうが、駅の北・南どちらもそれぞれにきちんと機能を果たしている様はなかなかのもの。もっともここは、ヤマハ、カワイ、ローランドといった日本の楽器産業の中心であるのみならず、スズキの本拠地でかつ、ホンダの出発点でもある。それだけの力があるのは当然なのかもしれない。浜松市民の誇りも相当なものだろう。夜ホテルで読んだ、浜松市の広報誌も充実していた。これだけ読ませる広報誌を作れる市もなかなかないのではないか。

さて、肝心のコンクールだが、初日、最初の演奏者ワン・チュンのラフマニノフ二番が特に素晴らしかった。一楽章途中からとても熱い情熱的な演奏を聞かせてくれ、聴いているだけで涙が止まらなくなるくらい。二番目のゴルラッチが弾いたベートーヴェンの三番は、嫌いな曲なので評価は難しいが、演奏自体には好感が持てた。カデンツァも華やか。キム・テヒョンのラフマニノフ三番は、正直退屈だったが、細かいパッセージを明瞭にきちんと弾ききっているところはさすが。

二日目、クズネツォフのプロコは退屈で眠気が収まらなかった。余裕で弾きすぎていて、面白みがまるでない。北村のラヴェルは、オケと全く合わず、演奏は崩壊していた。指揮者の沼尻竜典氏が、北村がとろうとしているテンポに全くすりよらず、自分のテンポを押し通そうとした結果のようだ。オケのほうでも、管がジャズ的なリズムにのることができずに、みっともないことになっていた。最後サラトフスキーは、キムと同じラフマニノフ三番を弾いたのだが、オケを聞く余裕がないようで一人突っ走っているように聞こえた。ただしそのぶん熱い演奏であり、聞いていて楽しかった。もっともオケと合わなかった原因のいったんはやはり指揮者にもあるように思う。

というわけで、一番最初の演奏が一番素晴らしく、それを聴けただけでも行ったかいがあった。このようなコンクールを見にいくのははじめてのことだが、やはり演奏者にかかるプレッシャーも一般のコンサートとは比較にならないだろうし、そうした緊張感もまた新鮮だった。

なお二日目の午前中は三時間もかけて、楽器博物館を堪能しきった。これまで本などで知識として知っていただけの、進化途上における様々なピアノの打鍵から発音までのメカニズムを、本物そのままのモデルで見ることができたのは大きな収穫だった。また、ここに収められた膨大な楽器のコレクションそれぞれに直接触れることができるわけではないが、それらのうちのかなりのものについては、演奏を録音したものをヘッドホンで聞くことができるので、それぞれの「楽器らしさ」を深く体感することができた。これは単に見るだけとは印象が全く違いとてもよい試みだと感じた。これからの博物館には、展示物を「見せるだけ」ではなく、それが実際にどのように使われているのか、映像や音声などで表現することを期待したい。

2006年10月24日 (火)

新しい楽器 コンサーティーナとウクレレ

先々週、とうとうコンサーティーナを購入。ここのところほぼ毎日練習している。
ボタン式アコーディオンの一種なんだけど、とっても小さくて扱いやすい。
買ったのはこれ。
http://www.buttonbox.com/images/w15lnb.jpg

コンサーティーナは主に2タイプあって、アイリッシュで主に使われるのは僕が買ったアングロ=コンサーティーナ。GとDの音階でボタンが並んでいて、押すのと引くのとでは別の音がする。
Gの列だと、複数のボタンを同時に押すとGの和音がなり、引くとAマイナー6の和音が鳴るようになっている。同様にDの列だと押すとDの和音、引くとEマイナー6。
アイリッシュの曲の多くはD調とG調で演奏され、半音は使わず転調もあまりないから、これでほぼ十分。
ただ実際に触っていると、押すときにしかDの音がでず、引くときにしかCの音が出ない、というのがちょっと不便。というのも他の音との和音をつくるときにこの二つの音はよく使うので、引く和音の中にDを加えたい、とかそういうことがよく起こってくるからだ。

今練習しているのはホーンパイプを数曲と、ダニーボーイ。ホーンパイプの跳ねるリズムがコンサーティーナにはとても合う。ダニーボーイはゆっくりと、コードを加えて。

この感じだと、一年くらいである程度弾けるようになるのではないかと思う。

ちなみにウクレレも同時に購入。妻の方が数倍僕より上達が早いので僕は早々にあきらめ、妻にやってもらっている。
今練習しているのが栗コーダーの「オリオンビール」。一昨日やっと最後までさらえた。

2005年12月18日 (日)

最近行った演奏会・展覧会

2月1日 コブリン・ピアノリサイタル(浜離宮朝日ホール)。
 春の演奏会ですっかりファンになったコブリン、今回はクライヴァーン・コンクール優勝の凱旋コンサートという位置づけなのだろう。前回ほどはよい席がとれず、音がこもって聞こえる部分があったのが残念だが、演奏は期待通りだった。
 ブラームスのラプソディーは、これまで聴いてきたいろいろな人の演奏とそう変わらない内容だったが、幻想曲集には、前回の演奏会でも感じたような「作曲者が憑依する」ような感覚があった。ブラームスがその場で即興演奏しているような、感性のほとばしりを感じることができた。
 ショパンのスケルツォは、これまで余りにたくさんの人の演奏を聴いてきて、今さら面白いと思うわけもないだろうと思っていたにもかかわらず、細部の明晰性と全体的な構成力の双方に優れた姿には圧倒された。特に一番と二番は圧巻だった。
 今回一番素晴らしかったのはアンコールのモーツァルトの小品(K.400 アレグロ 未完のソナタの断片)で、その軽やかなタッチの自在さにすっかり心を奪われた。ショパン同様、モーツァルトも「こんなもの」みたいな感じができあがっていたので、聴いていたときにはハイドンのマイナーな作品だと思い込んでいた。それをここまで崩されたのははじめて。

 12月3日 北斎展(東京国立博物館)、プーシキン美術館展(東京都美術館)、秋吉敏子 ピアノソロライブ (宇都宮市文化会館)

 前回断念した北斎展、プーシキン展をどうしても見たくて、早起きして上野へ向かう。開館時間ちょうどくらいに到着したときには、最終日の前日ということもあり、国立博物館前には長い行列が出来上がっていた。
 北斎については、以前津和野の「葛飾北斎美術館」で少し見たことがあり、「大体こんな感じ」というイメージを持っていたのだが、初期から後期までの作品をこれだけそろえられてはじめて、そのイメージが後期のものに偏っていたことを知った。
 とにかく画風は自在闊達で、様々な表現技法を自由に試みながら自分のものにしている姿が見事。北斎と言えば後期の富嶽三十六景が有名だが、そこに至るまでの若い頃(宗理期)の作品が特に素晴らしかった。後期の作品は確かに完成度は高いのだけれど、技術が安定しすぎていて、面白みはむしろ若い頃のほうが上という印象があった。ただし後期の作品は有名だから、単に見慣れていたり、あるいは混んだ展覧会で、後半ちょっと疲れてきていたせいもあったかもしれない。

 午後はプーシキン美術館展へ。傑作ぞろいで楽しかったが、見慣れた人の見慣れた画風の作品がほとんどなので、これという驚きはなかった。安心して楽しめる感じ。
 強いて言えば、大好きなセザンヌのまだ見たことのなかった作品、「池にかかる橋」はとても良かった。全面がセザンヌらしい太い線で埋め尽くされている中、地上の木々とそれが水に映る景色との対比や、木々の木漏れ日の光の表現が大変美しかった。
 また、ゴッホの作品の一つ、「刑務所の中庭」は、あのいつものどぎつい色の表現の代わりに、陰影のある静かでかつ劇的な表現がなされていて、好感を持った。解説を読むと、ギュスターヴ・ドレの版画の模写ということで、ちょっと納得。初期のマチスのフォーヴっぽい作品も良かった。

 見終わったときには、朝からの疲れで疲労困憊していたにもかかわず、その後、入場無料だった都展も一回りした。たぶんアマチュアの人たちが、自分の好きなように描いた様々な傾向の作品がずらりと並び、プーシキン美術館展よりも楽しかった。
 とはいえ、こうした無名の人の作品を見るのに、お金を払う気はしないだろうなと思い、また館内のおみやげコーナーに並んだ、美しさにおいては原画とほとんどひけをとらない数十万円の複製画を見るにつけ、こういう展覧会って何なんだろうとは思ってしまった。
 自分自身の記憶を呼び覚ますひとつの手段として購入する図版などでは、確かにあの美しさは十分に再現できていなくて、それは単に「カタログ」に過ぎないのだけれど、現代の技術を駆使した複製画は、ほとんどホンモノと見分けがつかないレベルに達している。わざわざ東京まで出てこずともそれらを近くで見ることができるなら、十分だとも思う。
 しかしただそこにどれだけの対価を払うか自問自答すると、「それなり」ということになって、どのような作品を並べるにしても同じようにかかる様々な経費を考えると、そうした複製美術館としての収支は合わないことになってしまうのだろうか。
 とはいえ、宇都宮美術館が収集しているポスターなどは、いわばそういう方向で地方の美術館の存在意義を考えていこう、ということなのかもしれない。

 疲れきった状態で電車に揺られて帰ってきて、夜は秋吉敏子のライブへ。
 以前から思っていたことだけど、ソロ・ピアノのジャズはあまり面白いものではないな、というのが正直な感想。席が右のほうで、手の動きなどが全く見えなかった、というのももしかしたら関係しているのかもしれない。手の動きが見えないのでは、あまりコンサートに行く意味はなくて、ライブのCDを目をつぶってヘッドホンで聴いているのと変わらないな、と感じた。客席よりも舞台のほうが高いというのも、ピアノを聴く際には考えものなんだなあとも。

 12月15日 諏訪内晶子 チョーリャン・リン フランソワ・ルルー 
 ヨーロッパ室内管弦楽団(弦のみ)

 とても楽しい演奏会だった。
 諏訪内さんの演奏はかなり荒っぽく、特に低音部で少々雑な部分もあったし、共演者とも必ずしも息がぴったり合っているともいえなかったが、しかしそれにも関わらず、音楽を前に進める力が大変強く、スリリングで生き生きとした演奏だった。帰ってきてからクイケンのバッハを聞いたら、これが同じ曲なのというくらい違っていて驚いたくらい。とにかくテンポが異様に速くて、嵐のように駆け抜けるというような演奏だった。

 曲がバッハでかつオケも小さめということもあって、諏訪内さんはいつものようにオケと対峙しながら孤高な道を行くというよりは、軍団長のようにオケを一緒に引っ張っていくような感じがした。ヴァイオリンとオーボエの協奏曲では、オーボエが一人だけ管楽器ということで、諏訪内さんはソリストというよりはコンサート・マスターのようにオケと溶け合うような印象もあり、二つのヴァイオリンのための協奏曲では、彼女が第一ヴァイオリンを、チョーリャン・リンさんが第二ヴァイオリンをそれぞれに率いて前に進む、というような雰囲気が出ていた。
 ふだんCDで音だけを聴いているので、ときどきこうして生演奏に接すると、そういう視覚的な部分にいっそう気持ちが向かうようだ。

 


 

2005年12月 4日 (日)

ショーン・ライアン at ロバハウス、ベトナム近代絵画展

 つくばに引き続きショーン・ライアンの演奏会へ。
 印象は前回とそう変わらないが、前回よりも守安功さんのフルートに、朴訥とした「いい感じ」のリズムを感じ、その分、雅子さんのハープが後から入ってくると、その良さを消してしまうようなところがあった。この朴訥とした感じの根源は、たぶん呼吸から来ているんだと思う。ひとりのソロでもショーンと合わせているときにもしばしばそうしたスウィートスポットを当ててくるときがあった。ただしこうしたプロでも、いつもそこにもっていけるわけではないところに、かえって音楽の人間味というものを感じる。
 今回はじめて聴いたカテリーナ古楽合奏団の松本さん、上野さんの演奏は今回の予想外の収穫だった。松本さんの吹いていた、リコーダーのような音のするホイッスルも美しかったし、上野さんの弾いたリュートの音色も、繊細で優しい音がしていた。古楽器は高音部の響きの多い騒々しいイメージがあっただけに、このリュートの優しい音色はかなり意外だった。バロック以前のヨーロッパでリュートが、上品さの象徴となっていたこともこれで納得だった。僕が古楽器に対してもっていた「騒々しい」という印象は、民衆の楽器からきていたのかもしれない。

 この日はその後、後藤家の人々と昼食。後藤君は大学時代の同級生で、特に4年生の時、一番仲の良かった友人。現在僕がアイリッシュにはまっているのは、彼の影響によるところが大きい。現在でも家族ぐるみでつきあっている。
 彼にこどもができてからは、なかなかゆっくり話をする機会が持てずにいることがちょっと残念だったのだが、そのふみこちゃんもだいぶ大きくなっていた。にこやかでとてもかわいい。

 もともとの予定では、その後上野の美術館をまわる予定にしていたのだが、思ったより立川と都区内の距離があったため、残念ながらタイムアップ。東京ステーションギャラリーでベトナム近代絵画展だけ見て帰ることにする。

 絵そのものにすごく感動するような作品はなかったが、中国文化の影響下にある漆絵はちょっと面白かった。赤い背景に金箔を埋め込んだような絵が多いのだが、赤に対する僕らの「情熱」とか「激しい」という印象とは違った感覚を持っているのではないかと感じさせられた。
 また金箔は光を強く反射するので、絵画の中で、目に直接飛び込んでくる太陽の光などを表現するように使われているのが印象的だった。僕が知らないだけかもしれないが、日本画ではあまりそんなふうに金箔を用いる伝統はないように思う。
 また同じ漆絵で、彫刻と組み合わさっているような作品もいくつかあり、いわゆる遠近法的な世界とはまた違った立体感を直接表現しているのが面白かった。
 政治的には、中国で毛沢東を題材にした絵が多いように、やはりホーチミンを題材にしたような絵が多く、社会主義と個人崇拝の関係についてふたたび考えさせられた。

2005年11月25日 (金)

はじきよと栗コーダー in『ウクレレ・フォース』

 うちが愛するバンドの二大巨頭が<はじめにきよし>と<栗コーダー・カルテット>で、友達がうちを訪れたり、車に乗せたりするたびに彼らの音楽の宣教に努めているのだが、残念ながらまだ「これ大好き」という言葉を聞いたことがない。TVなどでは数秒のちょっとしたBGMなどとしてさりげなく使われていたりもするから、大抵はどこかで耳にしているはずなのだが、歌の入らないインストルメンタルということもあって、そうした音楽をとりたてて聴きたい、とは思わないのかもしれない(注1)。
 だとすれば、彼らのアルバムを繰り返し聴き、布団を干したり洗濯物をたたんだりしながら、よく口ずさんでいたりするうちの夫婦の趣味は、自分らが思っている以上にかなり「変わっている」ということにもなるのかもしれない。

 バルトークやマーラー、現代の実験音楽とか、ちょっと変わったジャズとかを好んで聴いていたりして、「変わっている」と思われるのは自分でもわかるんだけれど、耳ざわりもよく、映画やアニメのBGMにも採用されているようなそういう音楽に、それほどみながヒットしない、というのはちょっと不思議だ、と思ってもみたりする。

 もっとも、他の人がそれほど深く気にかけない存在だからこそ、それをとりわけ好きになる、という心理はあるのだろう。何かを好き、というのもある種の自己表現だったりするからだ。
 はやりの音楽やファッションなど、「誰もが好きになるものを自分も好きになる」という心理の中にさえ、「流行により敏感な自分」だったり、「若者としての自分」だったり、差異化する心性というものの存在を見てとれる。仲間意識というような集団への同化だって、その仲間を他のその他大勢から区別する差異化とセットになって存在している。

 そういう意味でいえば、うちの夫婦も単に、その他大勢からの差異化として「はじきよ」や「栗コーダー」のファンだったりするだけではなく、「それを好きな私達」という夫婦のキズナを確かめ合うひとつの手段にしている、という面も、よく考えてみると否定できないように思う。そういう仲間意識を、他の身近な人々とも共有したくて「はじきよ」や「栗コーダー」を聞かせたりしているのだろう。

 「はじきよ」と「栗コーダー」に共通するのは、ピアニカやリコーダーといった、学校で強制的に習わされる教育楽器を用いているところだ。
 このことから想像するに、僕らが彼らの音楽が好きな理由のひとつは、学校での音楽の時間に、ピアニカやリコーダーという楽器に、それなりにまじめに取り組んできて、ピアニカやリコーダーに対するある種の先入観がしっかりできている、ということにあるのだろう。ピアニカやリコーダー、というのは「安っぽい音」しかせず、高度な演奏などは不可能な「コドモのオモチャ」というイメージだ。それなりに一生懸命に取り組んだからこそ、そうした壁というものを感じたのだろう。
 さらに、自分では別の楽器もやっているから、そういう「コドモのオモチャ」から卒業した、という意識もある。
 もちろんリコーダーに関しては、古楽の立派な楽器で、ルネッサンスからバロックにかけて活躍していることはちゃんと知っているから、そのような種類の音楽の文脈で使われれば「大人の真面目な音楽」であることはわかっているけど、それと小学校で習うような「ポヘポヘ」としたリコーダーははっきり別物だと、信じて疑っていなかった。

 彼らの音楽の魅力のひとつは郷愁で、どこか懐かしい感じがするのは、ひとつには子供の頃になじんだ音にあると思う。それは僕にとって、近所の子供の弾くソナチネやブルグミュラーが懐かしいのと同じような所にある。
 でもそれなら、こどもたちが弾くようなピアニカをそれだけ愛せるか、というと全然そんなことはなくて、彼らはそうした楽器を使いながら、自分がその楽器から想像したこともなかったような音楽を達成している、そういう驚きがある。そこが違う。

 もっとも、「その楽器から想像したことのない」音楽、というだけなら、たとえば ピアニカでアコーディオンのような音楽をやってみせればそうしたギャップ感は味わえる。もっともそれは、このいかにもアコーディオンのような音楽を、あのピアニカで演奏している、ということを知っていてはじめて得られるギャップ感だ。はじきよの場合、僕はそれをはじめて聞いて雷に打たれたような思いをしたとき、ピアニカで演奏していると思っていたわけではない。
 
 そこにはやはり、こどもの頃になじんだ、あのピアニカらしい音のなりが残っているし、はじきよの場合、それは音色だけではなく、メロディーやリズムの全体にそうした郷愁を感じるような音楽づくりがなされている。特に初期の作品の場合、手の届く感があり、自分でも演奏してみたい気にさせられる。実際我が家では、きよしさんの吹いていたのと同じヤマハのごく普通の水色のピアニカを購入し、CDに合わせて吹くのがしばらく流行っていた。

 そこで打ち壊されているのは、「ちゃんとした音楽<>子供の遊び」という二項対立だ。もしピアニカを使っていても、それが完璧にフランスのミュゼットのような音楽を写しとってしまえば、それは単に「ちゃんとした音楽」をもう一つ生むだけにすぎないし、そこには大した驚きはない。単にこのピアニカであれをやるのか、という超絶技巧に驚かされるだけだ。たとえば自分の知り合いがそうした超絶技巧の持ち主であれば、それはそれなりに驚かされるが、この広い世界に超絶技巧の持ち主がいること自体は特に驚きでもなく、そうした超絶技巧にすごさを感じることは、何の自分の差異化にもつながらない。
 
 「ちゃんとした音楽<>子供の遊び」という二項対立のぶち壊しを「はじきよ」以上に明確に意図して行い、はっきり成功しているのは「栗コーダー」だ。
 
 今回この文章を書くきっかけになったのは、ウクレレを用いたグループが集まって、ビートルズとかプレスリーとか、誰もが知っているような曲を、それぞれのグループがウクレレを用いて編曲して1枚のアルバムにまとめる、というシリーズのアルバムだった。そのシリーズの全体に「はじきよ」と「栗コーダー」が参加しているのだが、とりあえずその中から「ウクレレ・ジブリ」と「ウクレレ・フォース(スターウォーズの音楽)」を購入してみた。もっとも「ウクレレ」を用いていると言っても、「ウクレレ」だけで編曲されているのではなく、「はじきよ」ならいつも通りピアニカやノコギリも用いているし、「栗コーダー」は、ウクレレにプラスしていつものリコーダーやチューバ、サックスなども使用している。

 さて、このアルバム、まずCDの表紙絵からして、スターウォーズのXウィングを模した戦闘機の両翼がウクレレになっていたり、R2D2らしき白い小ロボットがよく見るとウクレレのかたちをしていたり、とベタな遊びで楽しませてくれるが、CDのターンテーブルに置くやいなや、一曲目から脱力系の心地よさに満ちている。
 
 スターウォーズやのジョン・ウィリアムスにしても、ジブリの久石さんにしても、オーケストラを用いた壮大で迫力ある、重々しい音楽を作り上げているのだが、それが「栗コーダー」にかかると、「ポコポコ」「ヒヨヒヨ」といった一言で言うと<かわいらしい>音楽に変わってしまう。
 ふつう、元のイメージがはっきりした音楽を、スケールダウンして聴かされると音がどうしても足りない感じがして不満が溜まるものだ。たとえば去年ビートルズの最後のアルバム「レット・イット・ビー」から、オーケストラなどのアフレコを取り去ったバージョン「ネイキッド」を聴いたが、変化のない繰り返しにがっかりさせられた。
 しかし「栗コーダー」の音楽は、そのギャップがむしろ楽しめるような仕掛けになっている。もちろんそのギャップを意識的に狙っているのは明らかだが、自分たちの音楽への妥協は一切なく、仮に元曲を知らなくても十分独立した音楽として成立する、そうした強ささえ感じられる。リコーダー自体はかなり高度なことをやっていて、真似できそうで真似のできないそんな演奏になっている。

 この価値転換のひとつの機能を担っているのが、<かわいい>という感性であることは、おそらく間違いないだろう。僕の仮説では、こうした感性は、日本の若い女性たちの文化的な戦略とともに育てられてきたものであり、そうした文脈抜きで、日本文化圏の外では受け入れられないだろうと思っているのだが、海外の人がこの音楽を聴いたらどう感じるのか、大変興味深いところだ。

 なおこのウクレレシリーズは以下から試聴可能だ。感想をぜひコメントしていただけたらうれしい。
http://rollingcoconuts.com/contents/works/#force


注1 もっとも「はじめにきよし(以下、はじきよ)」はまだまだ相当マイナーで、これなら知ってそうというのはちょっとない。一方「栗コーダー・カルテット(以下、栗コーダー)」はかなり有名なはずで、NHKのBSを見ている人なら、BSのマスコットになっているななみちゃんが画面に出るたびに彼らの音楽を聴いているはずだし、映画の「クィール」のサントラなども担当している。ちなみに僕らがはじめてはまったのは「あずまんが大王」のサントラから。

はじきよの音楽は
http://www.hajikiyo.com/ のHPで試聴することができる。

2005年11月24日 (木)

『世界楽器入門』 郡司すみ著 

 素晴らしく示唆に富む本だった。
 特に興味深かったのが「風土と楽器」と題された章。

 まず楽器によく用いられる素材である皮革と木について、それが水分を吸収しやすい性格を持っていることから、風土と楽器の関わりの導入部となっている。

 その一例として、日本の小鼓と大鼓の対照について述べられる。小鼓は、柔らかく表情に富んだ音を出すことが特徴で、実際にその皮は、水で適度に湿らせることによって軟らかくして用いられる。軟らかい皮が柔らかい音を出すわけである。
 一方、大鼓のほうは、堅く突き刺すような音が特徴で、これも実際に皮を火などで乾燥させることによりそうした堅さを実現している。

 これは日本の一定の風土の中で、「湿」と「乾」のそれぞれの風土に育てられた楽器とその音色を実現するための一つの工夫であると考えられる。

 木についていえば、湿度の変化による変形と材料の入手自体が問題になる。湿潤な地域では変形にたえうるように一本の木を刳り貫いたり、竹をそのまま用いたりして楽器を製作することが多く、そのための材料も比較的容易に手に入る。一方、乾燥した地域ではこうした問題が起こりにくいのと、楽器にそのまま用いることができるようなちょうどよい材料が手に入りにくいこともあって、薄い板などの部品を組み合わせて楽器が製作されることが多い。こうした地域では、加工前に木材をゆっくり時間をかけて最適な水分量まで乾燥させることも容易である。
 音としては薄い板などを用いた楽器のほうがより明るく華やかな音色がし余韻も大きいのに対し、一本の木を刳り貫いたり瓢箪や竹筒などをそのまま用いた楽器の方が暗い音色となる。
 このような楽器の違いはこれまで「進んだヨーロッパ<>遅れたその他地域」という図式だけで解釈されることがしばしばだったが、こうした「乾<>湿」という風土の違いも大きな働きをなしていたことが指摘されている。

 さらに、風土の反映として、人々の住環境の違いも指摘されている。
「高温多湿地域においては、それぞれの地域に恵まれた竹、木、藁などを用いて開放的な家が造られ、楽器は屋外か、あるいはそれに近い、音の放散度の高い条件の中で奏されている」p.99
 もちろんそうした環境で用いられる楽器は「強い刺激が含まれる」ことが多くなる。彼女の言う「刺激」とは、音量だけでなく、高音の要素の多い音質なども意味しているようだ。
 一方、低温の地域の住居は高い気密性が要求され、壁は石や煉瓦など音を反射させやすいものが用いられる。室内での活動の割合も大きく、必然的に楽器は静かな沈黙の空間を軟らかく満たすものが多くなる。

 この対立は同じ風土の中でも、室内の音楽と野外の音楽の差にも同様に見られ、それは聖<>俗の対立、貴族<>民衆の対立にそのまま反映することとなる。

 同じヨーロッパの音楽とは言っても、いわゆるクラシック音楽は、教会や宮廷など、こうした大きな残響のある隔絶された空間を前提としていったん成立した。いわゆる古楽器は、そうした要請に答えてできあがった楽器であり、その小さな音量は、単に技術力が十分に進んでいなかったからそのような状態にとどまったのではなく、むしろ当時の音楽の理想を実現するものだった、と郡司は考えている。

 バロック以後の西洋古典楽器の進化は、教会の内部装飾と木材の使用の増加に伴う反響の減少や、床を敷物に覆われ、大きさ的にも反響の効果が十分得られない貴族の館の一室での演奏を前提に進んでいったらしい。それが18世紀の変化。音楽史的に言えば、18世紀前半がバッハ、ヘンデルの時代、後半がハイドン、モーツァルトの時代にあたる。

 さらに19世紀初頭から、大きな演奏会で、ヴィルトゥオーゾが多くの聴衆のために演奏する、という機会が急激に拡がったことで、楽器はさらに二つの方向で進化していく。
「その一つは、正確で速い演奏を目指す奏者の動きを楽器の上に効果的に伝えることのできるメカニズムと、その動きを余すところなく音に変える音響的な機能であり」「他の一つは多数の聴衆で満たされた広い演奏会場の隅々まで十分に音が聞こえるような音量」だった(p.103)。

 こうした変化の社会構造的な背景について郡司はとくに述べていないが、それらも「風土」のひとつとして考えることができるだろう。

 なお、ここで見た「聖<>俗の対立、貴族<>民衆の対立」は、楽器の貴賎に関するイメージとも関係していることが「思想メディアとしての楽器」pp.131-135で述べられている。上記の対立で前者を代表するハープやリュートという楽器は、「聖書や神話に登場する(高貴)」「音が小さい(上品)」「音色が柔らかく、減衰の余韻がある(優雅)」「構造が複雑・繊細である(知的)」「演奏が難しい(高度)」「形が美しい(芸術的)」「演奏姿勢が優美である(容姿端麗)」「壊れやすくたびたび修理しなければならない(富)」などというイメージを形成しているようだp.131。
 これに対して低いイメージを持たれていたのが(初期の)バグパイプや口琴であり、ほぼ正反対の性格を持っていたことが関係しているのだろう。

 この本で他に興味深かったのが、楽器製作の産業・教育との全体的システムに関する短い考察だった。音楽学の人が、こういう社会学的な分析まで行っていることに、知識の深みを感じた。

2005年5月 8日 (日)

タガタメ

 母のコンサートは無事終わり。打ち上げに食べに行ったレストランおいしかったなー。パネ・エ・ヴィーノというお店。妻がたのんだほたるいかのタリアッテッレをちょっとわけてもらったんだけど、これがもう絶品。メインの子羊のソテーもやわらかくてジューシーで、ラムってこんなに上手かったのか! という味だった。もっともこれがしばらく前には元気にはねまわっていた子羊かと思うと、ちょっと後ろくらい気分にもなるんだけれど。特にアイルランドでいっぱい羊見てきて、うちにも羊の親子のぬいぐるみがあったりするから、なんだかちょっとね。
 帰りの電車で、ミスチルのアルバムを順番にとばしとばし聞いてたんだけど、今さらに「タガタメ」に泣けてきた。僕は実に簡単に涙を流すタイプで、中学生日記とかを見てても涙が止まらなくなっちゃったりするから、人から見たら僕の涙なんて、大して信用してもらえないんだけれど、本人的にはすごく胸が動かされた。「タガタメ」、桜井さんも絶叫してるし、あまりに重い歌だから、カラオケの練習みたいな気持ちで気軽に聞けないんだけれど、久しぶりに聞くとジンとくる。
 このまえ、ドイツみたいに、戦争責任を全てナチに押し付けちゃって、善良な市民はその巻き添えになっただけです、みたいなかっこをしているのはどうよ、という話をした(注1)。「僕らは連鎖する生き物だよ」っていうのは本当に実感としてそうなんだと思う。そういう世界において、それでも自分の行動に責任を持ち、子供の教育に責任を持ち、というのはそれ自体確かに矛盾なんだけれども、でもこの世界はそういうふうにできていて、それをおりこみ済みでこんなふうに世界は回っている。そういう「正しいことをしなければいけない」という信念も含めて、僕らのそうした信念に基づく実践を含めて、僕らは因果関係の輪の中にある。そんなことをあらためて考えさせられる。
 それにしても、「タダダキアッテイコウ」というメッセージはカタカナにしてぼかしてみたところで、それでも余りに直接的と言ったらそうなんだけれど、因果関係で回っていくラプラス的な宇宙と、カント的な意味での人としての責任、との狭間でかつ他人事という文脈におかれると、詩として強い力を感じさせられる。
 同じようなテーマで撮られた映画に「ゆきゆきて神軍」というドキュメンタリーがあって、もしまだ見たことのない人がいたらぜひ見て欲しいと思う。こういう話が出てくるたびに、あの映画に出てきた、戦友や上官の罪をかばおうとする老人のことを思い出す。
 
注1 言うまでもないけれど、ナチだけが悪いなんてことがありえないように、誰もが悪くないということもない。また戦争責任を否定しようとしているのでももちろんない。責任という文法で語られるような事態はこの世の中に確かに起こっている。

2005年5月 1日 (日)

ラ・フォル・ジュルネー(熱狂の日)

 今日は東京まで、ラ・フォル・ジュルネー(熱狂の日)というイベントに足を運んだ。7つのホールで、三日間、朝から晩までベートーヴェンの曲を国内外1000名にわたる演奏家が演奏し続けるというもの。日本人の演奏者は超有名人ぞろいで、好きな人はまるまる三日間通い続けたんだろうと思う。僕も東京に住んでいたらそうしたかもしれない。
 僕らが今日聞いたのは樫本大進を含む三人のソロとポーランドのオケによる三重協奏曲と、古楽オーケストラのコンツェルト・ケルンによる交響曲二番&エグモント序曲。本当は他にもいくつか聴くつもりだったのだが、電子チケットぴあで注文する際のトラブルで結局チケットが入手できなかった。インターネット通販の怖さをはじめて感じさせられた。
 
 というわけで僕ら的には、ごく普通のコンサートひとつ分程度のささやかな参加だったのだが、コンサートの内容的には大満足だった。両方とも席は一列目で、特に前者に関してはソリストたちのちょうど真下で、彼らの息遣いが文字通り聞こえてくるようなところだった。
 特にチェロのゴーティエ・カプソンが、ヴァイオリンの樫本クンとからむところで、「この旋律いいよねー」と言わんばかりに、いつも体を樫本クンのほうに折り曲げて弾いていたのが印象的だった。若さもあるかもしれないが、そういう熱さというのは、この前テレビで見たイーグルスのギターの掛け合い以上のもので、そういう姿勢というのはクラシックもロックも変わらないんだなーということをあらためて感じさせられた。 

 無論彼のそうしたパフォーマンスだけでなく、オケ(シンフォニア・ヴァルソヴィア)もピアノ(ニコラ・アンゲリッシュ)も全て最高の演奏だった。

 コンツェルト・ケルンのほうは、はじめて聴いた古楽オケで、とても興味深く聴いた。たまに管の入りなどでずれがあったりして、ミスも感じられたが、たぶんそうしたものは古楽ならではなのかもしれない。そうした欠点も含めて、単に「楽譜の精神を再現する」というのではなく、「楽器を通して音を作っている」という感じをたっぷり味わわせてくれたのはとてもよかった。
 それにしても、こんなただの管みたいなものをよくあれだけ鳴らすものだ。デイヴィッド・スターンのメリハリの利いた指揮もこのオケにとてもあっているように感じた。
2015年9月
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