2009年2月15日 (日)

あきらめること、について

「昭和初期のカラー映像」という記事について、友人からコメントをもらった。

 昔の人たちのたたずまいの美しさに感動したこと、そうした美しさはもしかしたら、「あきらめ」を知っていることによるのだろう、ということ。「あきらめ」ってネガティヴにとらえられがちだけれど、それは一種の人生に対する覚悟みたいなもので、そこから僕らは多くを学べるのではないか、といった内容だった。

「昔の人たちはあきらめることを知っていた」という実感は僕もある。

 たとえば学生さんを見ていると、僕らの年齢とたかだか20くらいちがうだけなんだけど(ってよく考えたら、倍は違うんだな(汗))、

でもそのたった20年くらいの間にも、「あきらめる」っていうことがずいぶんなくなってきている気はする。

 言い方は厳しいかもしれないけれど、覚悟を決めずにずるずる就職浪人したり、勉強を特にしたいわけでもないのになんとなくモラトリアムで大学院進んだり、という人がすごく増えているように感じられる。

 そしてそれは少しも他人事ではなくて、僕自身だってちょっと上の世代からみたら同じように見えるのだろうと思う。同世代から見てもそうなのかもしれない。そういう意味では良くも悪くも時代の先端をいっている気はする。

 今僕は「文学部唯野教授」みたいな、大学の授業を再現するような類の小説を(無謀にも)書きはじめているんだけど、実際に書いてみると、文章の文法みたいなものが意外にわかってないことがわかってしまった。

 セリフと地の文をどうやって使い分けるか、とか、場面転換をどうしたらいいのか、とかそういった、きっと高校や大学の文学同好会みたいなところで同人誌とかを作ってきた人なら必ずなんとなくわかってるようなことがわからない。小説を読むときにはちゃんとそういう文法を理解して読んでいるわけなんだけど、読むのと書くのとじゃ大違いなんだね。

 で、訓練のために試しにマンガ(よしながふみの短編)のノベライズを一本やってみた。それで、ちょっとコツがわかってきたので、今度は英訳された日本語の小説を和訳し直すという作業を今やってみてる。

 何回も何回も読んだはずの作品(村上春樹の「午後の最後の芝生」という短編)なんだけど、なかなかそれらしい表現を見つけるのが難しくて、作家ってすごいんだなあということをあらためてしみじみ感じてる。

 さて、こういうたぐいの「勉強」とか「訓練」って、仕事でやってる「勉強」や「訓練」とはずいぶん違って、すぐに成果が出るようなものではない。それはある意味、人生の可能性を広げるようなタイプのものだ。

 陶磁器の職人さんが研究に研究を重ねて、新しい色を出す、とかそういう種類の努力とはまったく違った種類のものだと思う。

 今ではそういう「勉強」をカルチャースクールみたいなところで、一種の「遊び」としてやることができる。今僕がやっているようなことは、きっとカルチャースクールの「小説を書いてみよう」みたいなコースできっとやっているようなことだ。そういう余裕っていうのはやっぱり過去の日本人の多くにはなかったものだろうと思う。

 でもやればできるという可能性は確実に存在してる。音楽だって、自分でCD作ってみてわかったけど、プロが作ってるものとそう質の違わないものが、ちょっとした投資と時間をつぎ込むことでアマチュアにもできてしまう。それで食べていくことはとてもできないけれど、それでもプロがつくっているものと同じ値段を出して買ってくれるような人がちゃんと存在する。そのくらいのものがアマチュアでも作れてしまう。

 文章だって、地方紙の新聞でプロの記者が書いているお粗末な文章よりもよっぽど気の利いた文章を書ける人がいくらでもいて、ブログが有名になったりもする。

 そういう可能性っていうのはかつてはほとんどなかったはずだ。アマチュアの人が文章を他の人に読ませるような場というのはなかなか見つけられなかっただろう。よっぽどの覚悟を決めて早い段階から人生をそっちの方向に絞っていかない限り、誰かに読ませる文章を書くような機会なんて得られなかった。でも今は違う。

 今でも、それで食べていこうと思ったら、かつて以上に競争が厳しくなってるわけだから、それはすごく大変だけれど、でもセミプロくらいのところなら、才能があって努力すれば、たとえばこのくらいの年齢になってからだって、結構何とかなる。

 昔の人の伝記とか読むと、特に立身出世した人たちの多くは、すごく無鉄砲にがむしゃらにやって成功した、という人たちが結構いる。たぶん今の子どもたちは情報がたくさんあるから、きっとそういう無鉄砲さはだいぶ失われているのだろうと思う。でもその無鉄砲さというのはあくまで若い頃のものだ。そして同じように無鉄砲なことをやって失敗した人たちのほうがずっとずっとたくさんいたはずで、ぼくらはたまたま成功した人の事例だけを歴史の中で見ているにすぎない。

 その一方で、年をとってから、何か新しいことを勉強して、そこそこのレベルまで行くということは、間違いなくずっと簡単になっている。僕らはそういう可能性の中に生きている。プロとアマチュアの差はとても小さくなっている。

 友人が言うように、こういう今の時代のありようというのは、必ずしもいいことばかりとは言い切れないようには思う。可能性がそこにあっても、目をつぶって前だけ見て進むこともできるはずだ。いわゆる研究者という職業についた多くの僕の同僚はそういう生き方をしている。そうしないと専門家として大成できないということもあるのかもしれない。

 正直迷いはずっとあるし、これからもそうだろうと思うけれど、ただ数年前からよく思うのは、どういうふうに生きたところで、それも一つの人生だということ。

 いろいろ可能性が広がったとはいえ、生きられた人生の現実はいつも一つ。その人にとっては悲惨に思われるような選択になるかもしれないけれど、それも一つの人生なのだなと。

2009年2月 8日 (日)

昭和初期のカラー映像

昨日は風邪でお休みして、うちでずっと仕事してました。
ちょっと休憩と思ってyoutube検索してたら、昔NHKでやってた昭和初期のカラー映像という番組がUPされてて、すごい感動したんで、ぜひ誰かに聞かせたくて書いてます。

最近戦前の少女雑誌を分析した本を読んでたんだけど、1930年代の日本って、一方では僕らのイメージどおり、言論統制化の暗い時代という側面も確かにあるんだけど、一方では都市化と工業化が進み、中産階級が育って、教育を受け文化を楽しむ層が広がった戦後の高度成長のさきがけみたいな時代でもあったんだなということに気づかされました。

こういう自分を振り返ってみると、これまでもそんなふうに感動したことは何回かあって、一つは「大国の興亡」っていう近代史を扱ったアメリカの本かなぁ。読んだのは10年近く前だと思うけど、それも日本やドイツなどの爆発的な工業力の伸張がこの頃進んでいることをデータで示していて、そのときもへぇーって思ったんだよね。

ごく最近も怪人二十面相の映画やったり、あの時代をとりあげるのも最近小さなブームになってるようなので、その影響もあるかもしれない。

戦後の変化は、すべてGHQが成し遂げたつくりもので、1945年のbefore/afterで完璧に日本が作り変えられたみたいなイメージをたぶん多くの人は持ってるけど、瓦礫に化した国土の背後には、着実に思考、知識、社会習慣の変化が進んでいたんだなあって思わされます。
(ちなみにその本は
http://book.asahi.com/review/TKY200704100202.html です)。

で、NHKの番組の話だけど、カラー映像の力ってすごいね。
自分がいかにあの時代を「遠い過去のもの」って思ってたかがよくわかる。そういう感覚をいっきに引き戻す力があるよ。
あの時代って、なまじ白黒の映像が残ってるだけに、そういう「白黒」なイメージになっちゃったんだけど、その当時を生きていた人は、もちろん今の僕らと同じように山を見、空を見、街を見ていたわけで、
その街並みも、今とはそりゃぁ違うけど、でもある種引き算みたいなもので、今の街並みからごてごてした色と照明を取り除くとこんなものというような茶色や灰色を基調としたモノトーンのすっきりした世界で、こんな街があったら、ぜひ訪れたいというような世界です。
ちなみにその映像
http://www.youtube.com/watch?v=Wf8DNSaExsw 

後半は
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4137998 から(登録が必要。コメントがうるさい場合には画面右側の「システム」から右上の「コメントを非表示」にチェック))。

(以下は一週間後の後日譚)

学生のゼミ旅行に足尾銅山に見学に行くことになっていて、戦前の足尾銅山の白黒写真をたくさん見てたんだけれど、今までと見方がぜんぜん変わっていることに自分で気がついてすごく驚いた。こういう白黒の写真を見ても、色を自分で補ってるんだよね、無意識のうちに。

その風景は、当たり前だけれど、もともとちゃんと色がついてそこにあったんだ、ということを強く実感し始めたんだと思う。

知識ではそんなこと、もちろんよくわかってるんだけれど、実感するのはまた別なんだね。

これもこの前みたカラー映像の効果だと思う。今の俳優さんが演じて、セットを使って作った歴史ドラマをテレビで見ても、決してこういう変化は生じなかった。

2009年2月 7日 (土)

『永遠の0ゼロ』百田尚樹作  ---戦争を単なる善悪のどちらかで割り切ってしまわないために

一般論として、まず戦争という手段を避けることができるなら避けるべきだということは当然だ。
また特に太平洋戦争において、日本軍が集団としてなしてきたことの多くに、許すべからざる、あるいは愚かしく醜い問題があったということはもちろんだろう。
しかしだからといって、あの戦争で戦った一人一人の兵士の営みがすべて同じように断罪されるべきなのか、ということは別問題だ。

こうした考えがこの本の思想的な中心テーマをなしている。

戦争という、それ自体はよほどのことがない限り正当化しえないような状況においても、そうした状況の中での個人一人一人の行動には、その状況下でとれる行動の選択肢の範囲内において、平時と同じような善悪の判断基準があてはめうるのではないか。
その善悪の判断基準をかんたんな言葉にあらわせば、自らを大事にするように仲間を重んじるということになる。
もちろん戦争という状況下において、その「仲間」という範囲にはどうあっても「敵」はふくまれない。それこそが戦争という状況を招くことの問題ではある。
かといって、じゃあ戦争という状況下で行われるあらゆる個人の行為はすなわちすべて悪なのかというと、決してそうはいえないだろう、ということがこの小説の主張であるといってよいように思う。

これは、簡単に肯定することのできない、難しい問題ではあると思う。
一方で、こうした仲間を思った上での行動が、そもそも戦争という事態を支えているとも言える。
仲間のための自己犠牲という精神なくして軍隊はありえないからだ。

しかし一方で、人道的にまったく許せないようなこと(安易な例かもしれないがアウシュビッツ収容所のようなできごと)がなされているとき、それをとめる唯一の手段がもし戦争だったとするならば、それが戦争だというだけで否定することはできないのも確実である。

またもう一つの問題は、こうした仲間のための自己犠牲は、生死が直接関わらないような局面においては、とても否定できるようなものではないのである。
もっとも次のような極論も可能といえば可能かもしれない。
そうした平時においてさえ、人は自分を第一に生きるべきである。なぜなら、他者の自己犠牲を称揚するような社会は、結局誰かがそうした自己犠牲を利用し搾取につながるからである。
だから人はみな自分のための打算で他者と関わっていくような社会こそが、よい社会なのだと。

しかし僕らの感情はそうした極論を正当化することはとてもできない。
それは単にそうした社会に生きることの束縛によるのかもしれないが。

いずれにしてもこうしたことを真剣に考えさせ、しかもこうした重い問題を暗澹たる気分ではなく、共感をもって読み進めさせる、とても貴重な小説であることは間違いない。

戦争そのものの善悪と、その状況の中に生きた個人の生き様とを切り離して語れるようにできたのは、この作品の主人公ともいうべき宮部の「必ず生きて帰る」という決意からくる臆病さと飛行技術の巧みさとの共存という性格設定にある。

僕らはこうした時代離れした、ほとんど現代からタイムスリップしたような人物を、この時代の周りの人間が必ずしも受け入れていないという描写によって、逆にリアルに受け入れることができる。そして彼を通じて見た世界は、たとえば石原慎太郎が賛美するような「勇敢さ」を称揚するようなものではまるでない。

またこの作品では、過去の場面をすべて回想として、老人の語り口調の中で見せているのも、戦争のドラマティックな美化を避ける効果的な手法になっている。

日本海軍の愚劣な作戦を糾弾する言葉も無論、ベースにあるのは無駄な人命損失を避けるという、戦争の中におけるぎりぎりのヒューマニズムを前提としていて、「ああすれば勝てたはずなのに」というようなナショナリズム的高揚とは無縁だ。

とにかくすべての世代に読んでもらいたい、戦争文学の金字塔とも読んでいい作品だ。

ただ全体の話の枠組みを若い男の子が祖父の話を戦争の生き残りの老人たちにたずねてまわる、という設定にしたのはよいのだが、その聞き役の男の子の姉の恋愛をもからめた展開にしたことだけはまったくの蛇足だったように思う。

2008年11月16日 (日)

母を訪ねて三千里

NHKの衛星放送で、僕が子どもの頃のアニメ「母を訪ねて三千里」を見ている。

この話の中で、主人公のマルコはよく怒っているんだけど、そういう感情の激しさって、
今ではなかなか理解できないものがある。
同じことを「宇宙戦艦ヤマト(ファーストシリーズ)」の主人公の古代クンにも感じた。マルコが成長したら古代クンになるんじゃないかという感じだ。
おそらく当時の人たちは、この怒りにきっと感情移入しながら見ていたのだろう。

ケンパーの感情の社会学理論から考えると、この怒りが意味しているのは、社会状況に対する規範意識の強さ(「○○べきだ」)と、その状況を変えることができるという信念なのだろう。
逆にその怒りに感情移入できない僕らは、社会のありように対する「そういうものだ」という状況の受け入れと、「どうせ変わりはしない」という無力感が身にしみているのではないかと思える。

2007年9月 1日 (土)

教育は子供のためでも国家のためでもない? 宮台批判

 WEBを検索していたらたまたま宮台氏のブログにたどりついた。
 その記事「教育神話解体:教育は子供のためでも国家のためでもない(教育社会学会大会[招待]報告要旨」だが、
 
 教育は社会システムを首尾よく回す手段であって、たとえば学校で子どもが幸せになるための手段ではないっていうんだけど、これって教育にまともに携わっていない人の言いそうなことだよなぁ。
 
 教育が社会システムの一部だって認識は正しい。でも手段っていうのは、行為主体があって目的を持って行動しているときにしか言わない。社会システムっていうのは勝手に動くもので、教育はその一部をなすサブシステムだけどその手段などではない。
 宮台氏はここで教育が如何にあるべきかを論じているのだと思うが、--そうでなければ「不登校・学力低下・荒れた教室を初っ端から問題視する」ことは問題にならない--ただ自然に回っている社会システムの方向性を教育の目的とすることはいわゆる自然主義的誤謬そのものだ。宮台氏はそれを「首尾よく」という言葉で回避しているが、「首尾よくまわす」って、子どもたちが幸せになることと違うのなら、一体どういう意味なのだろう。

 宮台氏は、《「仕事での自己実現」を目指す創造的エリートと、「消費での自己実現」を目指す消費大衆を生み出す》ということをここで「社会システムが首尾よくまわる」実例に挙げ、そうした政策実現の失敗の原因を、「キャリア形成の機会均等化ばかり重視する(格差論)」、社会ではなく個人の視座に傾いた教育論に求める。

 しかし、「キャリア形成の機会均等化」が「個人の視座」だと切り捨てるのは、それこそ虚妄ではないだろうか。「機会均等」は社会としての一つの理想足りえるものだ。一方「消費での自己実現」などは、消費が垂直の差異化の欲求に基づいている限り、社会全体としての理想たりえない。

 またここで仮に立派な教育目標を、彼のいう「エリート」が設定できたとする。それでも、現実の教育場面において何をしたからそれがめぐりめぐってその後の子どもたちの人生にあるいは社会に、それがどのような影響を与えるかなんてほとんど何も分かっていないに等しいのだ。
 その中で教師はかろうじて子どものとりあえずのニーズを満たしつつ、子どもが成長したという手ごたえだけを頼りに試行錯誤しながら、あるいは自分が教えられた方法をただ繰り返しつつ、日々の教育を行っているに過ぎないのである。

 たとえていうなら、宮台氏は完璧な地図とGPSを備えた船を前提にそれをどう導いたら良いか議論しようとしているように見えるが、現実の教育はいつ沈むかも分からぬ小さな帆船で曖昧な地図と羅針盤だけを頼りに風任せで航海しているようなものなのだ。

 そこで子どもが少なくとも苦しんでいないかどうかは、船が少なくとも逆行していないかを知るための数少ない頼れる指針であって、それも失えばただ波間に漂う板切れと変わらぬ存在となってしまうだろう。
 
 もちろん教育が、他のものを蹴落とすための技術習得だけになってはいけない。宮台が「個人の視座による教育」として、そのようなものを意味するのなら、もちろんそれは当然批判されるべきだし、「社会の視座」が必要だというのもその意味でなら納得できる。
 
 しかし、学校において子どもたちが明らかに苦しんでいる状況において、非常に曖昧で不確実な「社会システムを首尾よくまわす」という目的のために、それを放置しても構わないほど、教育の技術は発達しているとはいえないだろう。

2007年5月30日 (水)

「日本語は進化する」加賀野井秀一 

「かわいいおばあちゃん」を書き上げた後、二つの方向でこの研究を発展させることを考えている。一つは、これを比較文化研究にすることで、もう一つは言語=社会共進化の理論をつくりあげることである。

 後者の方向でとりあえず新書レベルの本から読んだ本の一冊がこの加賀野井の「日本語は進化する」(NHKブックス 2002)である。

 加賀野井の中心的な主張を簡単にまとめると、

 言文一致運動以前と以後の日本語は、次のような点で大きな変化を遂げ、その結果より論理的な思考を可能とさせるような言語となった。

              1 文体を統一する

言文一致以前は、生活の言語と書き言葉の言語が文体的にほとんど共通点がなく、切り離されており、書き言葉に関しては生活から切り離されて単なる大言壮語で因習的な儀礼的言語になってしまっていた。逆に生活の言語は、社会的な問題から切り離され、世俗のトリヴィアルな事柄のみにかかわずらうようになってしまっていた。文体の統一は、こうした問題を解消し、社会の問題について地に足のついた表現が可能となった。

2 コノテーションを限定する

言文一致以前には、言語が歴史的に持っている特有性が強すぎたために、表現が詩的な印象を羅列することに終わりがちだった。こうしたコノテーションの要素を絞り込んでいくことで、言語はより機能的に・普遍的な表現が可能となった。

→ この点に関して加賀野井はこれ以上分析していないが、社会学的には、豊かなコノテーションの利用は教養の表現という機能をそれまでは担っており、そうした機能をあきらめることにより、それほど教養のない層においても「正しく語る」ことが可能となったと考えられる。

また、コノテーションの絞込みには、言葉から連想するものを共有しない異文化との接触もまた大きな役割を担ったはずである。

3 言語の論理表現力と分析性を高める

論理表現力とは、翻訳を通じて他言語の語法を取り込むことにより、言語が論理を表現できるようになることである。分析性とは、シニフィアンとシニフィエの一対一対応化を進め、概念を要素に分解し、部品的な言葉の組み合わせで表現することである。前者については、加賀野井は主に漱石における英語的な表現の日本語への組み込みを例に挙げている(pp.67-76)。ただしそうした「組み込み」がそもそも可能となったのは、漢文読み下しにより中国語の論理表現が定着していたからだとする。後者の分析性の高まりの例としては、助動詞の削減複合化という現象を挙げる(pp.181-182)

 

 結局、現代の僕らが書き、話す言語は、他の言語との翻訳というやり取りを通じて、それらの言語と同じような表現力を備えている、ということになる。もっとも言語は、僕らの社会関係を反映するものであるから、日本社会の持つ上下関係、男女関係に対応した形で、その言語を発達させているし、またそうした言語がそのような社会関係を可能にしているとも言えるだろう。こうした点に関する加賀野井の分析は、社会学者からすれば常識レベルを越えず、どこかで聞いたような話にとどまっている。

 また日本語の膠着語的性質から、助詞・助動詞を足してさえやれば、名詞・動詞の部分については、外来語をそのままはめこむことができることが一体何を産むか、という議論もなされている。そこで柳父の「カセット効果」論が引用され、そうした安易な借用により、わけもわからず言葉を用いる傾向があると論じられている。しかし概念の意味をよく理解せずともその言葉が使えてしまうのは、別に日本語に限らない。欧米人だって、もっともらしくラテン語を用いるということはよくやっているし、知ったかぶりをして難しい概念を用いて話すような人はいくらでもいる。加賀野井は、「スリルとサスペンス」というクリシェにおけるサスペンスの意味を、ほとんど学生が答えられなかったということをこのカセット効果の例に挙げているが、こうしたクリシェの意味は、語用と文脈から僕らはそもそも判断しているのであり、サスペンスだけをとりだしてその意味がよくわからないというのは無理もないだろう。「火曜サスペンス劇場」を知っていれば、サスペンスが、「怖い」「はらはら・どきどきする」という意味であることは推測できるはずだ。そこから先のsuspenseの原義など、英語がそれほど得意でない学生が知らないのは無理もない。それはたとえばThursdayのうちのThursとはどういう意味か、アメリカ人に聞いたところでほとんど答えられないだろうということと同じではないだろうか。

 確かに英語以外の言語をほとんど知らないし使うつもりもないアメリカ人・イギリス人が、日本人よりも比較的地に足のついた言葉を使っているのは事実かもしれない。英語の歌の中で、さびの部分で突然外国語を混ぜるというようなことも彼らはしないだろう。かといって、彼らとて、たとえば社会学理論を大学で習った後、その後、中身をよく覚えていずになんとなく印象でその社会学理論の名前だけを用いるなどということは、日本人の学生とそう変わるまい。

 ただし、生活の言葉から切り離された哲学の翻訳語の問題などは、上記の1の問題の再現でもあるとは言える。フランスの哲学が普遍性を持ちづらいことは、上記の2の問題がいまだフランスにおいて解決していないからとも言えるだろう。

2006年10月 3日 (火)

速水融 『歴史人口学で見た日本』

例のトッド=速水会談を読んで、歴史人口学に興味が湧いたので、新書から読んでみることに。ほとんど知らない世界なのでいろいろ発見があった。

興味深い事実について

① 江戸時代、吉宗の治世のときから(1721-1846)全国規模で人口調査がすでに行われていたこと。ただしその調査は各藩でもともと行われた方法・基準を踏襲し、全国一律の方法ではなかったため、そこから厳密な全体の人口を知ることはできない。ただしそれぞれの藩での方法はずっと一貫しているため、地域ごとの変動などは知ることができる。
この江戸後期、全体としては日本の人口は停滞期にありほとんど増えていないのだが、地域ごとの人口変化を見ると減っていった地域と増えていった地域の差が生じている。主に減っているのは北関東、近畿圏など江戸、大阪、京都の三大都市圏周辺であり、増えているのは北陸、西中国地方、九州、四国である。この人口増加地域に薩長土肥がすっぽり含まれるのはおそらく偶然ではない。
この変化の原因と考えられるのは大都市が出稼ぎで周囲の人口をひきつけ、そこにおける高死亡率と低出産率とで人口を減らしていった、という効果である。これを速水は『都市アリ地獄説』と呼んでいる(p.65)。この高死亡率は、都市部(奈良市)および濃尾地方の宗門改帳の比較から確かめられている。
なお、こうした出稼ぎは小作人の家族で多く、彼らはその結果長い間に絶家する傾向が強い。一方、地主のこどもたちは分家を作り、それがだんだん地位を下げて自作農から小作人になっていく、というシステムがそこに存在していた。地方においては地主が人口を供給し、小作が人口を減らしていく。

この『都市アリ地獄説』は、同時期のヨーロッパにおいても確認されているらしい。
速水はこれ以上この論の意味についてこの本では詳しく述べていないが、これは無論、スペンサー=デュルケームの「人口密度上昇>分業の発達>経済の促進>さらなる人口密度上昇・・・」というような図式を覆すものである。都市は衛生状態の改善と工業化の二つの契機をともなってはじめて、そのポジティヴフィードバックをスタートさせたのだ。
衛生状態が改善されていないと、どんなに都市が工業化で人口を周囲から集めても、労働者はそこで一代で死に絶えてしまい、安い労働力は供給されない。これでは近代化のテイクオフは起こらない。

また、マルクスの言う労働者の搾取と自己疎外の理論は、むしろこの衛生革命以前の時期にこそあてはまる。というのも、彼らは奉公や小作を通じて、労働の本来の対価であるはずの自己再生産のための費用を受け取らず、搾取されることによって、絶家して消えていき、地主は彼らから搾取した「利潤」を自己の拡大再生産に投じることで分家を増やしていっているからだ。

「衛生革命」以降は、こうした搾取がむしろ生じないことで産業化は促進された。利潤は非工業化地域との価格差によって生じた。

② 江戸後期には人口は安定していたが、江戸前期は人口の爆発期であった。江戸初期の人口は、当時の肥後における人口調査結果(ここから石高と実際の人口の関係がわかる)と日本全体の石高を掛け合わせることでわかる(そこからの推測値は千二百万人)。江戸中期には三千万人近くになるので最初の百年で人口は2.5倍になったことがわかる。この人口変化の傾向は宗門改帳からわかる諏訪の結果と一致する。
 この人口爆発の原因を、速水は「勤勉革命」によるとする。速水は家畜数の減少(=資本低下)と、生活水準の向上(平均寿命の向上、旅行に出る者の増加)という事実から、実労働時間の増加によってこの生産力の向上が起こったと考える。この実労働時間の増加は、商品経済の発達により、「頑張れば報われる」というシステムが浸透したこと、(何らかの理由により)世帯規模が小さくなることによって、世帯内での協力も成り立ちやすくなったことによる、と速水は考える。ただし諏訪では世帯規模の低下は、人口増加が止まる1700年代以降も続いており、生産効率上昇との直接の関係があるかどうかは、疑わしいように(僕には)思える。

(補足)

ネットで調べてみると鬼頭 宏の『近代日本の社会変動―歴史人口学の視点から-』という本に、
20C初、都市死亡率が農村死亡率を下回る。
日本…明治20年代後半から都市発展本格化
   労働者定着→出生率上昇=都市人口の自然増加率も上昇
ということが書かれているらしい。
http://mwr.mediacom.keio.ac.jp/ito/katsudou4.html

  

2006年9月 7日 (木)

暦の歴史と社会学

月の名前について

January はヤヌス神から。
February は、贖罪の祭(Februltus)が行われる。
March は軍神マルスから (「コアラのマーチ」のmarchはフランス語のmarcher〔歩く〕からで別語源)。
April の語源は不明。ラテン語(aperire 開く)という語からという説と、ギリシャ神話のアフロディーテ(Aphrodite)にちなんだAphrilisという名前が変化したという説が有力。
May はマイア(Maia)から。プレアデスの七人姉妹の長女。豊穣の神。
June はユノー(Juno)から。ギリシャ神話のヘラ。
Julyはユリウス・カエサル(英名:ジュリアス・シーザー)から。
Augustはアウグストゥス(オクタヴィアヌス)から。
9月以降は数字の7、8、9、10から来ている。シーザーとアウグストゥスが自分の名前を月の名前にする以前には、JulyとAugustも5の月、6の月と呼ばれていた。

 つまりもともとはMarchから暦ははじまっていたのだ。そのNuma暦では10の月で名前のある月は終わり、冬の間は月の名前がなかったが後からJanuraryとFebruaryが冬の月の名前として加えられた。贖罪の祭が行われるのも、閏年の日数調整が行われるのもそれが年末だったからだ。しかし後から加えられたJanuaryに名前を取られたヤヌス神が時の最初と終わりを司るという意味を持ったため、紀元前153年以降公式に、Januaryが新年の月とされるようになった。その政治的な事情として、Wiki(英語版)は、選挙期間中に執政官直属の軍が動かせるようにするため、時の二人の執政官が暦の順番を変えたのではないかとしている。もっともそれ以前からヤヌスの月を新年と結びつける習俗はあったらしい。

なぜJanuary1が、現在のあの日になったのか
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0310.htm
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_1700.htm
を読んでもらうとここによくまとまっているのだが、ポイントは4つ。

1 BC47年に、シーザーが3月25日を春分の日になるようにした。そこから1月1日が逆算で決まった(ちなみにシーザーとその次のアウグウトゥスが月の日数を決めた際、慣習上年末であったFebruaryの日数を短くして調整した)。

2 シーザーが制定した4年に一度閏年をおくユリウス暦では1年は365.25日となり、地球の公転周期365.2421987日よりも長くなってしまうため、128年に1日の誤差ができる。

3 AD325年にニケア公会議で、イースターを決めるために用いる「春分の日」を暦上の3月21日に固定した。(ユリウス暦のはじまった400年後だったので、春分の日が4日ずれていた)。

4 それからさらに暦はずれ続け、イースターを決めるための「春分の日 3月21日」は、本当の春分の日から大きく遅れていった。そこで1582年にグレゴリオ13世が改暦をし、10日間ずらして、3月21日が本当の春分の日になるようにした。また今後もずれていかないように閏年の決まりを調整をした。

 ちなみに3月25日を春分の日になるようにしたのは、当時二つの暦があり、公式の暦の3月25日が、春分の日からはじまる農業用の暦の新年にあたることになっていたからだ、という説がある。(http://www.faeriefaith.net/Calendar.html より。このHP自体の情報は、Irwin, Keith G. The 365 Days - The Story of Our Calendar. 1964. Thomas Y. Crowell Co., New York から)。
 なお3月25日が春分の日になったので、12月25日が冬至となった。これがクリスマスが12月25日になった直接の理由と考えられる。当時ローマで信仰を集めたミトラ教の冬至の祭から引用されたという説がある(Wikipediaより)。
 さらに、この12月25日から逆算して9ヶ月前の3月25日が受胎告知の日とされ、この日を新年とする暦が中世ヨーロッパの多くの国で用いられていた。イングランドでは1752年までその暦が使われており、現在でも税制年度が切り替わる4月6日はユリウス暦とのずれを反映したそのままである。

教訓
1 僕らの世界は、恣意的な歴史的決定の積み重ねの上にできあがっている。

1月1日があの日であることには、合理的な理由などない。また月の名前など暦にまつわる様々な要素はそのときどきに少しずつ変わっていったため、全体的な理論の統一がはかられているわけでもない。

2 ただし決定の過程自体は歴史的かつ恣意的であっても、その運用は同時代的な論理に従って、合理的に行われる。
恣意的に決まった1月1日だが、どこの地域でもカレンダーを一つに統一する必要がある、という点は合理的な理由だった。そもそもの恣意性はその合理性には影響を及ぼさない。月の名前、週の名前の決め方も歴史的な恣意性によるが、そうした恣意的なシンボリックな意味は、そのときどきの現実との関係によって意味が置き換わっていく。現在水曜日に「水」なり商業の神マーキュリーなりを連想するような人はほとんどいず、それは週休二日制というリズムでかたちづくられるウィークデイの真ん中で、いろいろなお店が定休日にしていたりする、というような意味合いのほうが決定的である。

3 もっともそうした歴史的に沈殿していくシンボリックなイメージは、合理的な活動の外で人々の行動に影響を与えている。その典型例が占星術である。
人々がシンボリックな意味に影響を受けて行動しているのなら、それを予測する論理もシンボリックなものでなければならない。その意味で占星術には、株価を予想する社会心理学的な理論と似たプラクティカルな合理性があるとも言える。ただしそれが当たるか当たらないかには、人がそうしたイメージでそもそも生きているかに束縛を受ける。

2006年9月 5日 (火)

トッド 『帝国以後』

 アメリカが、世界帝国の位置から滑り落ちた後、ひとつの国民国家に戻るのではなく、擬似帝国として振舞うその戦略は、早晩崩壊に至るだろう、というのがこの本の基本的な趣旨である。
 いかにもフランス人が喜びそうなその基本的なストーリーはともかく、歴史的なアナロジーの使い方については、大変興味深かった。

1 トッドはマルクス的な経済決定論に対し、その他の基本的な人口指標の重要性を訴える。
 この本でトッドが特に重視するのは、識字率と合計特殊出生率である。
 彼はこの20年で発展途上国の識字率が大幅に上昇し、それに合わせて出生率が下がっていることを指摘する(pp.50-58)。この識字率の変化には、無論経済も影響を与えているがそれ以外の要因(政治・文化など)も大きい。
 この識字率と出生率の変化は、経済を活性化しグローバリゼーションを進め、民主化を推し進める力となるが、それは必ずしも政治的な安定を意味しない。
 
 トッドは、イランのホメイニ氏による原理主義政治革命を、クロムウェルによる清教徒革命と同様の現象であると考える。この清教徒革命が、後の名誉革命、産業革命の先駆となるわけだが、それを引き起こしたのは経済的な生産手段の発達ではなく、識字率の上昇であるとする。そしてイランの原理主義政治革命もまた同じような人口学的背景においておこり、ゆえに同じような帰結を生むだろうとトッドは予測する。
 現在イスラム圏において起こっている政治的不安定化は、識字率上昇の余波であって、余計な介入がなく自律的に発展が進めば自然に民主主義の発達と政治的穏健化への道を進むだろうと彼は考える。
 もっともヨーロッパではその後産業化された諸国による帝国主義・ブロック経済が発達し、後発先進国のドイツ・日本との全面対立から世界戦争へと向かっていくわけである。トッドのように「歴史は繰り返す」という発想をここに当てはめれば、現在の先進国が世界における既存権益を守ろうとして、後発諸国と対立を深めるのであれば同じような結果となることも当然考えられるわけだ。トッドはこうした可能性については特に触れないが、何らかの対処に迫られることは間違いない。ただしその対処において、アメリカ的な方法が間違っていることについては、トッドに共感する。

2 トッドは、「アメリカはわれわれのピラミッド、全世界の労働によって維持されるピラミッドに他ならない」とする(p.108)。生産力の増大に対し、追いつかない需要の伸びを補う、ケインズ的な公共事業の役割を、アメリカという国家全体がその膨大な貿易赤字を通じて担っているからだ。アメリカで進行しているのは投資が投資を呼ぶような明らかなバブルの図式であり、それが実体経済の支えからかけ離れたものである以上、何らかの下支えがない限り、いつかそれは崩壊するであろう、そうトッドは考えている。
 トッドがその下支えとして考えるのは、「絶対的な軍事的・国家的強制力」によるドルの信用である(p.132)。
 アメリカにおける貿易赤字の拡大は今にはじまったことではないのだから、このような論調は今さら特に珍しいものではない。しかしローマ帝国の平民状態と化したアメリカ国民の消費を守るために行われる、「絶対的な軍事的・国家的強制力」の表示の必要性が、イラク・アフガンといった中小国に対する軍事介入を推し進め、それがヨーロッパ、ロシア、日本の結束を導くだろう、というような分析には、現代的意義が見られる。もっともそれはフランス的な立場からの希望的観測にすぎず、ドイツなどはともかく、日本のアメリカ追随の終わる日が近いとは、様々な世論調査結果などを見ても到底思えない。

3 文化的にも、アメリカが普遍主義のモデル的な位置にはありえない、ということをトッドはアメリカ国内の白人=黒人間、白人=ヒスパニック間の混交婚姻率の低さに見てとる。白人=アジア系の婚姻率は高まっているものの、上記の組み合わせの婚姻率は低いレベルにとどまっている。
 たとえば2000年における、黒人男性の混交婚率は55歳以上で2.3%、15から24歳でも11%に過ぎない。黒人女性の混交婚率はさらに低く、全体で2.3%である。黒人女性ではもともとシングルマザーが半数を占めるので、全体で見れば黒人の母を持つ者のうち、わずか1%だけが法律上の黒人以外の父を持つのである。
 このような差異主義的な文化を背景に持つアメリカ人には、帝国を支える普遍主義的な思考ができないだろう、というのがトッドの見方である。
 トッドの代表作『新ヨーロッパ大全』もそうだが、こうした身近な人間関係が文化の基礎となる、という考え方には説得力があるように思う。

2006年9月 4日 (月)

本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』

 本田はこの本で、現代日本がハイパーメリトクラシー、すなわち人々のどんな種類の能力も何でもかんでも測定して評価する、そういう社会に変貌しつつあると主張している。興味深い部分もあるが、理論とデータの扱いにおいて少々問題を感じるところも多い。

 本田は、ハイパーメリトクラシー社会への変化を、「近代型能力」と「ポスト近代型能力」という二分法で描き出そうとする。前者はこれまでのメリトクラシー社会で主に評価されたいわゆる「学力」であり、後者は文科省が「生きる力」と呼んだような種類の能力である。

 本田が述べるように、日本において、企業と文科省が1980年代後半から2000年頃まで、「ポスト近代型能力」を重視する方向できたことは疑う余地もない。しかしそれが先進国に共通する変化か、と言うと大きな疑問である。
 本田は、ベックやギデンズを引用し、見田の「情報化/消費化社会」の議論を引用しながら、どうして日本がハイパーメリトクラシー社会になったかということを主張している。ベックやギデンズ、見田の理論は無論日本だけではなく、欧米など先進国全般にあてはまる理論として立てられているはずだから、その理論からハイパーメリトクラシー社会になることを言うなら、すなわち日本だけでなく先進国に共通した変化だと彼女は暗に主張していることになる。しかしそれは、理論がどうあろうと現実から否定されそうだ。
 というのも、たとえば英米は伝統的に自由主義的で標準化されない多様な能力を評価してきた。評価方法においても手続きの公正さよりも、個性を重視するやり方をとっている。これは、英米が日本よりも100年ほど進んでハイパーメリトクラシー社会になっていることを意味することになるが、他の様々な指標を見るにそうした解釈は矛盾につきあたる。
 しかもその英米は、教育改革を通じて、この時期の日本とは逆に、基礎学力の重視を打ち出してきている。さらに、日本においても、つい最近はゆとり教育に対する批判の大合唱となり、もう一度基礎学力重視に戻りつつあるようにも見える。
 もし英米と日本で教育改革の方向が逆転していたのだとすれば、それは先進国全般に共通する変化に対応して、というよりはもっと別の要因が働いていたと考えるべきではないだろうか。

2 さらに、「近代型能力」と「ポスト近代型能力」の違いは、日本と英米という違い以外にも
A 「工場労働者と 管理職、それぞれに求められる能力」、B 「中等教育と 高等・企業教育、それぞれで重視される能力」、C 「正規教育と課外活動、それぞれで育成される能力」という対にもある程度対応している。
 この全ての対において、社会的に後者が重視されるようになった、ということができるのだろうか。 それとも、例えば今でも工場労働者では近代型能力が必要とされるのに、産業における需給関係とは無関係に、別の理由で高学歴化が進み、そちらの論理だけで「ポスト近代型能力」が重視されるようになったとは言えないだろうか。
 あるいは例えば、これも様々な要因によって、課外活動が低調になったり、子どもが遊ばなく(遊べなく)なったことで、本田のいう「ポスト近代型能力」の育成が疎外され、仕方なく正規教育の中でその育成を行わざるを得なくなった、という仮説は成り立たないか。

3 苅谷らにおける「努力=勉強」とする狭い見方を批判し、勉強時間が減ったからと言って、彼らが努力しなくなったわけではないのではないか、というような疑問は正当なものだろう。そして、ハイパーメリトクラシー化に対応して、こどもたちが、学力以外の分野において、その努力を傾けるようになった、すなわち「閉じた努力から開かれた努力へ」と変化した(p.77)とする仮説も十分検討に値する。
 しかし、努力に関するこどもたちの主観的な評価のデータをもって、努力の量が減っていない(増えている)とするのは大いに問題があるのではないか。こどもたちによる「努力」という言葉の定義自体が変化している、というのならその量を比較すること自体に意味があるとは思えない。
 また、彼女自身が示したように「相対的に希少化した諸要因――親からの期待や生活習慣、勉強時間、テスト得点などーーが、『努力する』子どもの用件としてかつてよりも重要になっている」というデータから読み取れるのは、たとえば以前の基準からすれば相当少ない勉強時間でも相対的に多いと感じられるようになった、ということである。親からの期待などについても同様で、かつてだったらとても「厳しい」とはいえないような親の態度も、今では全体がこどもに対して甘くなっていることから、相対的に「厳しい」と感じられるようになった、それだけのことであるように見える。
 にも関わらず、本田はこのデータを逆に、「努力していると感じる基準が甘くなった」とは言えないことを示すものとして扱う。このような箇所を見ると、彼女の全体的な分析も相当いい加減なのではないか疑いたくなる。
 

 そのように疑い出すと、彼女がこの本における分析の主要な技法として採用した重回帰分析についてもどこまできちんと行われているか、危ぶまれる。そこで設定されている説明変数の組み合わせにはどれだけの根拠があるのか、それが十分に示されていないからだ。重回帰は、説明変数の選び方で結果が大きく変わってくることが知られている。

4 三章、四章では、「対人能力」や「生きるためのスキル」が重視されるようになった、ということを通して、ハイパーメリトクラシー社会を実証しようとしているが、彼女が用いているような質問から、ある人がそれらの能力を持っているかどうかなど知ることができるとはとても考えられない。
 こういった能力を、本人に対する質問紙だけで測れるという考え方自体、問題がある。対人能力、コミュニケーション能力といったものは、本人が「自分の考えを伝えられる」と思っているかどうか、などでわかるわけもない。多くの人が「コミュニケーション能力が欠如している」と考えるような人は、まさにそのような自己評価ができないところに問題があるのだ。本田はまた、「友達の間違いを指摘すべき」と考えることも、対人能力の高さとしているが、「友達が間違っている」と決めつける前に、「自分自身が間違っているかもしれない」、と反省することもコミュニケーションにおいて必須の能力だろう。対人能力というのはそうした多くの個別の性格のバランスの上に成り立っているはずなのだ。
 そもそも「ポスト近代型能力」の「ポスト近代能力」であるところの所以は、そうした能力を測る技術が「ポスト近代」になってようやく十分に開発されたことにあるのではないだろうか。それをこんな乱暴な質問票で測れると思う方がどうかしている。
 もしそれをどうしても測りたいのであれば、たとえば参与観察という手法をとるか、あるいは少なくとも他のクラスメイトや教師からの評価を総合していく、といった方法をとるべきだろう。「生きるためのスキル」は、実際に様々なことをやってもらい、それを評価するしかない。
 こういういい加減な調査の結果が今後一人歩きするようであれば(そしてその危険性は大いにあるが)、こうした調査の価値はゼロどころかむしろマイナスである、とさえ思われる。

 予算がないことを言い訳に、いい加減な調査をいくつもやってきた自分自身への反省もこめて、他山の石としたい。

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